大洋ボート

『万葉集』巻四・488,489

君待つと我(あ)が恋ひ居れば我(わ)がやどの簾動かし秋の風吹く(488)


  題に「額田王、近江天皇(あふみのすめらみこと)を思ひて作る歌一首」とある。近江天皇とは天智天皇のことで、この歌の読まれたときには額田は天智の側室の地位にあったようだ。「君」も同じく天智を指す。
  「待つ」という言葉の内実がたいへん濃密に感じられる。額田は側室であったからたえず天智といっしょに居られることはなかったであろう。また当時は夫婦であっても通常は夫は仕事のために外出が多く、不定期にしか帰宅できなかったようで、妻が夫の帰りを待ちわびる歌も多く残されている。そこには生活苦も多分に反映されていようが「待つ」ことが恋する感情に重なることも自然であったろう。額田には生活苦は無かったと思うが、天智の訪問の準備をいつもしておかなくてはならない、用意万端整えておかなければならないという事情であっただろう。前もって訪問の期日を使者の手紙で知らしてくることは逐一は無かったであろうと、私はかってに推測するのだが。<あの方はわたしを今でも目にかけてくださっているのだろうか、今度はどんなお話をされるのだろうか、わたしはどんな話をしようか、どうやって楽しい時間をすごそうか、とにかく早くお目にかかりたい>額田の「待つ」時間の内実を、私はあれこれと穿鑿してみるが、どうも追いつきそうに無い。それだけ濃密かつ切実な時間だと思われる。また他の一切合財を忘れてしまうようにごく自然に没頭してしまう時間であろうと想像する。
  「我がやどの簾動かし秋の風吹く」ここが解釈のわかれるところである。簾を動かした風が天智の化身であったり、天智訪問の前触れであるとする説がひとつ。もうひとつは天智とは、したがって額田が没頭する恋の時間とはまったく無縁の別の現実としての風であると説であるが、私は後者をとりたい。現実とはさまざまに展開する雑駁なもので、額田が天智を思って「待つ」濃密な時間も現実でありながら、簾を動かす風もまたありありとした現実だ。自分がたった今まで濃密な時間をすごし没頭してきたことを風による簾の小さな動きによって気づかされ、我に返った。こう読むほうが立体感があって、恋の独立性も読み取られていいと思うが。風が恋に連続していると読み取ると感傷的で甘くなってしまう。
  だが次の鏡王女(かがみのおほきみ)の歌は、額田王の歌を受けて読まれたもので、風の解釈が恋に連続するものとなっている。鏡王女は額田の母である。

風をだに恋ふるはともし風をだに来むとし何か嘆かむ(489)


  風にさえ恋することができるとは何とも羨ましい。風であっても恋しつつ待つことができれば何も嘆くことは無い。意はこんなところか。額田の母だからすでに老齢に達していて、伴侶と死別したのかもしれない。恋する相手がいないことの寂しさを訴えている。これはこれで独立した歌で、額田の恋が苦しいものであったとしても相手がいるのはいないよりはよほど幸福だ、羨ましいと言いたいのだ。歌と歌の対話としてはずれているのか、いや人同士の対話とは元来ずれるものかもしれない。
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