大洋ボート

『万葉集』巻三・375、430

吉野なる夏実の川の川淀に鴨そ鳴くなる山影にして(375)


  注釈なしでは読みまちがえそうだ。「鳴くなる」の「なる」は聴覚を示す助動詞で、したがって鴨の姿は直接は作者・湯原王(ゆはらのおほきみ)には見えず、その泣き声で鴨が川淀にいることがわかるということだ。何故か、山が「影」になって川淀と作者とを隔てているから。「影」は日の当たらない場所をさすのではない。水鳥の鳴き声が聴こえるのだから、大きな山が間にあるのではないだろう。小山か、大きい山であってもその裾野に作者はいるのであろう。だから川は部分的に作者の目にあってもおかしくはないが、その見える部分には鴨の姿は無いということになる。
  しんみりとさせるいい歌だと思う。吉野、夏実、川淀と歌の関心の対象がしだいに狭まっていって「鴨そ鳴くなる」で少し元に戻る。そして最終句「山影にして」で、どっしりと動きをとめて歌が安定する。映画のカメラの動きにたとえればしだいにアップになって少し戻り、最後には動きを止めるということになるか。何回も口ずさんでみる。すると私は鴨の鳴き声がどんなものか知らないが、なにかしら哀愁を帯びた響きを連想する。

やくもさす出雲の児らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ(430)


  「溺れ死にし出雲娘子(をとめ)を吉野に火葬(やきはぶ)る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌二首」と題があり、その二番目の歌である。一番目は「山のまゆ出雲の児らは霧なれや吉野の山の峯にたなびく」(429)である。当時は火葬は一般的ではなく、たいへんめずらかったそうだが、それだけ丁重に葬ったということだろうか。注解では出雲娘子(固有名詞ではなさそうにも思えるが、そう呼ぶしかないとしてもやはり特定の女性を指すのだろう)という女性が入水自殺を遂げた可能性を記している。溺死=事故死とも解釈できないことはないが、どちらにしても痛々しく同情を誘わずにはいられない歌ではないだろうか。人麻呂は火葬に立ち会ったのだろうか。429は火葬の煙を霧に喩えて、どちらかというと写実的だ。無論「霧」に出雲娘子の悲痛な霊を透視しているのであろうが。430はそれにたいして、もしかしたら人麻呂の想像力が読ませたかもしれないとの推察に誘われる。実際に溺死の現場を見た可能性は捨てきれないのだが。溺死体を「黒髪」と表現することがまさに詩的に抽象化されたすぐれた句で、目を見張らずにはいられない。死んだ女性の長髪が川面に広がるさまを映像として浮かべるべきだろうか。いや、歌それ自体としては、黒髪だけが独立して川面にとどまる奇妙といえば奇妙な映像が読者に迫ってくるのだ。とにかくも「黒髪」という言葉がこの歌の中心で、鑿で木肌をえぐるような鋭さがある。なお「児ら」の「ら」は複数ではなくて助詞。万葉集にときどきみられる表現。「なづさふ」は水面に浮かび漂う意だそうだ。「沖」は吉野川のような比較的狭い川幅の川には言葉として使用しにくいのではとも思うが、私としては何ともいえない。吉野川は見たことはあるが、湯原王の歌にある「川淀」と呼びうる広がりのある場所はあり、そこで遺体が流されずにとどまることはあってもおかしくはない。しかしそんな疑問など雲散するほど「黒髪」という言葉の強さに引かれる。
  [後註]中西進は430について、川の藻をみて黒髪を連想した可能性を記している。
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