大洋ボート

『万葉集』巻三・338、340,343、344,347,348、353,354

  大宰府時代の大伴旅人は「酒を讃(ほ)むる歌十三首」を残している。そのなかのいくつか。

験(しるし)なきものを思はずは一杯(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし(338)


 「験」は効能やきき目をさし、いつまでたってもそれをえられない物思いをするよりは酒を飲んでひとときを過ごしたほうがよっぽどましだ、という意。
  旅人が大宰帥であった時代は728~730年であるから、六世紀半ばといわれる仏教伝来以来、すでに180年ほどが経過している。各地に大規模な寺院や仏像が建立され人々の信仰の対象になっていた。また経典の勉強も盛んにされ、インテリであったであろう旅人もそれに没頭した時期があったのかもしれない。だが旅人には仏教経典は結局は難解で、身につけることはできなかったようだ。わからないことをあれこれ考えたって空しいばかりだ。わからないことをわかったつもりになって偉そうにすることはなお醜くて悪質だ。それよりも肩の荷をおろしてゆったりとして酒を飲むべきだ、そういう時間こそ大切にすべきだ、という主張であり、思想である。 

古(いにしえ)の七の賢(さか)しき人たちも欲(ほり)せしものは酒にしあるらし(340)
なかなかに人とあらずは酒壷になりにてしかも酒に染みなむ(343)
あな醜(みにく)賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似る(344)
世の中の遊びの道にすずしきは酔ひ泣きするにあるべかるらし(347)
この世にし楽しくあらば来(こ)む世には虫にも鳥にも我はなりなむ(348)

  340の「七の賢しき人たち」は脚注によると魏晋時代の「竹林の七賢人」を指すそうだ。私はそれについては無知。賢人と呼ばれる人たちもやはり酒を愛した。禁欲的ではなかった、先達のそいう姿勢を習って私も酒を愛そうという意。343は、人として中途半端に生きるくらいなら、いっそ酒壷になって酒に染みこんでしまおうという意。344の「賢しら」は利巧ぶって相手に不快さを抱かせる意。340の「賢しき」とは正反対なくらいだ。難しいことをわかったつもりで滔滔と語る人は自分から見れば猿に似て醜いものだ。酒を飲まないので、その好さを知らないままだから。347の「すずしき」は心が清々してなんのこだわりもない状態の意。最高の心境をさすのだろうか、それが飲酒して酔い泣きすることだという。348は仏教の教えを直接に意識して、それに対抗する思想が歌われる。死んだあと、何に生まれ変わるのか、はたまた地獄へ堕ちるのか、極楽へたどりつけるのか、そんなことはどうでもよい。現世でせいいっぱい楽しむことができればそれで十分ではないか、来世のことなど私は心配しないぞ、という意。
  大伴旅人のこの思想には賛同すること大である。旅人は経典を勉強したのであろうから、そしてその難解さを身をもって痛感したのであろうから、経典を語る輩の半理解をも敏感に見抜いたのであろう。くすぐったくも醜いという印象をえたことも納得できるのだ。またそういうことを抜きにして酒を愛するという中心部分だけを取り出しても、私も酒好きであるために共感できる。享楽主義的で、老年に達したためか諦念にも染められている。だがそれもよいだろう。しかし反面、どれもこれも同工異曲でつまらないという印象も抱かざるをえない。飽きてしまうのだ。思想が固定化されてしまったうえ、どの短歌にもそれに付加するものが見あたらないからだ。心が揺れ動くとまでいかないにしてもその兆しがみえない、思想だけの短歌ではつまらない。短歌に限定せずともひろく芸術全般において思想が固定的に表現されるだけではつまらない、ものたりないのではないか。このことは個別の思想にたいする賛否とは別の領域のことである。思想の表明なら芸術ではなく、思想の書で展開したほうがよりすっきりと読者に訴えかけられるのだと思うが。たとえば柿本人麻呂は皇室尊宗思想を強固に維持したが、人麻呂の歌にはそれだけではない、皇室への恋情のようなもの(「恋闕の情」ともいわれる)をそこに付加して肉付けし、最終的に歌にした。付加されたもの全体を私たちは呑みこんで感動を覚えるのだと思う。それにしても『万葉集』は『万葉集』だ。旅人の「酒を讃むる歌十三首」は万葉のなかにあって特異な歌群で、目立つことは否定できない。

み吉野の高城(たかき)の山に白雲は行きはばかりてたなびけり見ゆ(353)
縄の浦に塩焼く火(ほ)のけ夕されば行き過ぎかねて山にたなびく(354)

  353の作者は通観、354の作者は日置少老(へきのをおゆ)。雲が山の方向に移動しないでとどまって見える。塩を焼く煙が風がないためかいつまでも山にたなびいている、という意で、いずれの歌もそれほど非凡さはないが、それでも大伴旅人の一連の思想歌と比較すると、すっきりしていて入りやすい、これこそ短歌ではないかとゆったりできる、落ち着ける思いがする。風景が歌われるとその空間が想像されて広がりができるからだ。雲も煙も少しずつ移動し姿を変えていく。しかし風がなかったり弱かったりすると、それがとどまってみえる、その姿に作者は心惹かれるものを感じて率直に歌にした。何を感じたのか、鮮やかさか、それとも小さな倦怠感か、それはわからないが、わからなくてもよいのだ。束の間の風景の1ショットに私たちも心惹かれることがあり、それはたんに美しかったり、奇妙さを感じただけで、それ以上ではないとしてもやはり印象に残ったことは確かであり、忘れてもかまわないが、少し忘れるにはもったいない気がして歌にとどめた。
  人は勤労一辺倒では息が詰まるものだ。そこからほんのひととき、わずかに距離をおく時間がだれにでもあるが、それは貴重というべきではないか。大いなる感動を読者にもたらすばかりが短歌ではない、短歌の原点をこの二首に私は見る思いがする。

日本古典文学全集〈2〉万葉集 (1971年)日本古典文学全集〈2〉万葉集 (1971年)
(1971)
不明

商品詳細を見る
関連記事
スポンサーサイト
    14:11 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
Comment







(編集・削除用)


管理者にだけ表示を許可
Trackback
http://oceanic.blog70.fc2.com/tb.php/549-f51e4af4
プロフィール

seha

Author:seha
FC2ブログへようこそ!

カレンダー(月別)
10 ≪│2017/11│≫ 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
最新の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
カテゴリー
月別アーカイブ
全ての記事を表示する
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
ブロとも申請フォーム
ブロとも一覧
ブログ内検索
RSSフィード
リンク