大洋ボート

『万葉集』巻三・253

万葉秀歌〈上巻〉 (岩波新書)万葉秀歌〈上巻〉 (岩波新書)
(1968/11/25)
斎藤 茂吉

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  一首の短歌が人によって解釈がまるでちがうことがあるようだ。

稲日野も行き過ぎかてに思へれば心恋しき加古の島見ゆ(253)


  柿本人麻呂の一連の羈旅歌のなかのひとつで、「稲日野」は「印南野」とも書き、現在の兵庫県明石市から加古川市一帯を指す。「加古の島」は加古川のあたりで、陸地や岬であっても「島」と呼称する用法。または加古川河口の三角州に当時は文字通りの島があったとも推察されている。二つの地名はいずれも景勝の地で、人麻呂は船上の人で、船は明石海峡を過ぎて稲日野の岸に沿ってゆっくり西へとすすんでいく。歌の解釈としては、稲日野の眺めがいいのでいつまでも眺めていたい、船足よ、そんなに急がないでくれと作者が思っていたところ、別の景勝地である「加古の島」が見えてきた。これまた稲日野に勝るとも劣らないすばらしい眺めで、人麻呂は「心恋しき」という最上の褒め言葉を書く。同列か、「加古の島」が眺めとしては少し上回るほどの関係がふたつの地名の間にある。船上からの移動しながらの風景を読んだ歌として、私には自然な解釈に映る。
  ところが近代歌人の斉藤茂吉の解釈はこれとはちがう。「行き過ぎかてに」は行過ぎがたいの意味だが、それは作者の「もうすこしいい景色を眺めていたい」という主観ではなくて、船足が実際に遅くてなかなか進路をすすまないことと受け取る。それにつづく「思へれば」は「もの思う」「もの恋しき」と同類の意味で、旅にあって故郷や家族のことや歌作りのこと、さらに人麻呂にあっては国家や皇族にたいする思い、さまざまな思いが抱懐されることを指す。感傷的であったり、沈鬱であったりしてしまう状態を指すとされる。したがって「思へれば」は行き過ぎがたく「思った」のではなくて、船の進行の遅さによってしだいに旅情に陥ってしまったという独立した句である。第二句とこの第三句とのあいだに「小休止」があると茂吉はいう。「心恋しき加古の島見ゆ」はようやく船がそこまで近づいたという思いがこめられていると受け取るようだ。茂吉は一般的な解釈とは逆に、船は西から東へ進んでいると受け取る。(稲日野は加古川を中心とした東西一帯とする)そうすると茂吉の解釈をひろげれば船は故郷の大和をめざしていることになり、故郷への通過点としてのいくつかの指標のひとつである「加古の島」が見えて故郷により近づいたという感慨であり、その思いによって「物思い」の沈鬱から解放された、ほっとした心情ということになる。
  茂吉の見方によれば「稲日野」と「加古の島」は並列的ではなく目的地により近いということで後者に感慨がこめられている。どちらも景勝地であるにちがいないが。
  私は素人であるから茂吉のような解釈はそれを知らなければ思いもつかないが、それだけに新鮮である。やや無理があるとは思うが、歌が立体化して感動がますように思える。素直に読めば最初の解釈に軍配があがるのかなと思うが。また私は三十一文字を一気に読んでしまう習癖があるが、これも要注意であろう。額田王の「三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや」(巻一・18)も二句で切れ、四句目でも切れるそうだ。
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