大洋ボート

『万葉集』巻三・235、239

  天皇は「現人神」(あらひとがみ)と呼ばれる存在だ。人間のなかで階層序列的に最高位にある人であり、神としてもっとも崇め祭られるべき存在だ。人間界を代表し統率しながら、人間界の幸福を先頭に立って実現する存在であり、一般人はその行動につきしたがわねばならず、天皇の下に結束しなければならない。天皇はまたあまたある自然界の神のなかにおいてもそれらを下におく最高位の神であり、自然神にたいしてその意思を霊性をもって吹き込んでその意思の実現に役立たせる存在である。万葉の時代にあっては、一般人のすみずみまではどうかわからないが、少なくとも天皇の周辺にある人々にとっては、天皇はそのようにとらえられていた。政治と信仰が天皇という存在によってひとつに纏めあげられていたということになろうか。

大君は神にしませば雨雲の雷(いかづち)の丘に廬(いほり)せるかも(235)


  柿本人麻呂の歌である。詠まれた天皇は特定できないとされ、天武、持統、文武のいずれかとされる。「雷の丘」は現在の奈良県高市郡明日香村で今もその地名は引き継がれている。その地名に自然神としての雷を連想して、雷を落下させる雨雲のうえに仮の宿舎を立てられたということだ。雷をもしたがえる存在としての天皇が称えられている。

やすみしし 我が大君 高光る 我が日の皇子の 馬並めて み狩立たせる 若薦(こも)を 猟路(かりぢ)の小野に 鹿(しし)こそば い這ひ拝(おろが)め 鶉(うづら)こそ い這ひもとほれ 鹿じもの い這ひ拝み 鶉なす い這ひもとほり 恐(かしこみ)と 仕(つか)へまつりて ひさかたの 天(あめ)見るごとく まそ鏡 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき 我が大君かも(239)


   口語訳・( )内は枕詞

(やすみしし) わが大君の (高光る) わが日の御子長皇子が 馬を並べて 狩りに出かけていらっしゃる (若薦を) 猟路の小野に 鹿なら ひざまずいて拝もう 鶉なら 這いまわろう その鹿のように ひざまずいて拝み その鶉のように 這いまわって 畏れ多いことだとして お仕え申し (ひさかたの) 天を見るように (まそ鏡) 仰いで見ても (春草の) いよいよお慕わしい わが大君よ

  
  長皇子(ながのみこ)が猟路という場所に狩に出かけて人麻呂も同伴した。歌はそのあとの宴席で披露されたといわれる。長皇子は天武天皇の第四皇子、「猟路」は奈良県桜井市と推定されている。皇族も天皇の血族であるから天皇と同等の身分であり、暮らしぶりも裕福であっただろうし、崇められたであろう。
  私は人間は互いに平等だという現代の人間観にどっぷりひたっているのか、特定の地位や身分にある人間にたいして「怖れおおい」という感情が湧きにくい。この場合、相手を無際限に高めることと自分を卑しい存在として無際限に低くすることの両方の感情の操作が必要だが、つまりは自己の感情を強引に捻じ曲げなければならないのだが、時代の風潮がはじめからそういうものならともかくも、にわかにはそれはできない。たとえば私が特定の人に悪事をしたとして、その人が必要以上に怒らずしだいに忘れてくれるというなら「怖れおおい」という感情もわくだろう。逆に私がその人から多大な恩を蒙ったとしたなら、やはり同じ気持ちになるだろうが、それでも人間は平等だという人間観は固く、動かしがたいものがある。
  柿本人麻呂はこの時代にあって誰でもが抱くであろう天皇崇拝の感覚を有していた。またさらにそれを強め純粋化しようと心を砕いた人である。それを歌として実現し披露し、人々に心地よく納得させ広げることに生涯を費やした。人麻呂の天皇観を現代の風潮や感覚から批判してもはじまらないのだが、それはそれとして、鹿や鶉が皇子に従順につき従っている、そればかりか畏拝するという歌の光景はやはり私には異様に映る。鶉のことは知らないが、鹿ならいまでも奈良公園にいってせんべいをあたえればおとなしく従順なものである。つまりはごく自然な動物のありかただが、これを人麻呂は皇子の霊性が動物にも吹きこまれた結果であり、うつくしくもありがたい光景としたのである。人麻呂は普段から皇族への「怖れおおさ」の感情を抱いていて、それを皇子のまわりにいる動物を見て、はっとなって思い出させられたということではないか。歌としては鹿と鶉がとりあげられたことが新鮮で、すぐれた部分であるといえるが。これに比べると「春草のいやめづらしき我が大君かも」は自然な感情がこめられているように映って、腑に落ちる。なにかしら安心する。長皇子という人が見目麗しい人であろうという気持ちにすっと持っていかれるから。
  もっともこれほどつきつめて考察することは不要かもしれない。狩のあとの宴席で披露されたというから、現在でも宴席で社長を祭りあげ美辞麗句を呈すことは、礼儀にのっとるかハメをはずすかさまざまにしてもごく一般的なことだから、その範疇として人麻呂のこの歌も受け入れられたとみなすこともできるだろうから。

日本古典文学全集〈2〉万葉集 (1971年)日本古典文学全集〈2〉万葉集 (1971年)
(1971)
不明

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