大洋ボート

『万葉集』巻三・270,271、296,304

  万葉集には旅情を詠んだ歌が多くある。朝廷の役人であった人々は任務によって奈良盆地から東方は関東地方まで、西方は九州まではるばると赴かねばならなかった。乗り物はあったのか。海上交通はあったが、陸上だと身分の高い人をのぞけばやはり徒歩が主であったと思われる。単身でか複数でかさまざまであったろうが、だれでもが歌をものにするはずもなく、歌詠みの身としては単身者の自覚をもたざるをえなかったのだろう。周囲の雑音や意見に惑わされることがあったのかもしれないが、自分の気持ちを優先してそれをすくいあげ、正直に歌い上げることに腐心したのではないか。つまり歌詠みには孤独の影が常につきまとってきて、そのなかからの旅情の披瀝となる。
  旅情とは家族の団欒や都の賑わいをあとにしてきた寂しさであり、またあとにしてきたものへの懐かしさである。逆に旅の身にあってはじめて目にする景物への新鮮な思いや感動であり、そこから慰めをうることである。

旅にしてもの恋しきに山下(もと)の赤(あけ)のそほ舟沖を漕ぐ見ゆ(270)


作者は高市黒人(たけちのくろひと)。「赤のそほ舟」とは赤土を塗った官製の舟だそうだ。作者は海抜に近い高さから海を眺めているのか、それとも小高い場所からなのかはっきりしないが、私は後者からの映像が自然に浮かんでくる。海は少し高い場所から眺めたほうがより見晴らしがよいからであり、好みとして選んでしまう。「山下」は山の麓と推定されており、どの高さから眺めても意味は通じる。この山は当然海に面した位置にあるのだろう。「もの恋しき」は都や家族のことを思ってぼんやりしてしまったのだろうか。その間に舟が沖へ漕ぎ出していくのが見える。のんびりしているような、寂しいような、一艘のたぶん小さな舟が頼りないような、そんな印象を受ける。作者はこの舟に旅にある自分を仮託したのか。

桜田へ鶴(たず)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干(しほひ)にけらし鶴鳴き渡る(271)


  有名な歌だ。作者は前出と同じく高市黒人。「桜田」も「年魚市潟」も現在の名古屋市南区付近と推定されている。万葉の頃は現在とちがって民家も密集していなかった、鶴も飛来してきたということで高市黒人は広大な海辺の平地を一望したのであろう。作者の位置から近い順に年魚市潟、桜田、伊勢湾となるが、年魚市潟も目の前にあるのではなくとおくに眺められる程度で、そのために「潮干にけらし」という推量をまじえての断定の語法を用いた。鶴は干潮時の海辺で餌をあさる習性があり、小魚が海に逃げ出さないうちに、年魚市潟よりもより餌の多く残っているであろう桜田へ群れを成していっせいに移動しつつあるという風景だ。鶴がどれくらいの数なのかはわからないが爽快さがある。二句目で一旦切れているのが万葉の歌らしいのか、歯切れのよいリズム感がある。この歌では作者はもの恋しさにふけることはない。

廬(いほ)原の清見(きよみ)の崎の三保の浦のゆたけき見つつ物思ひもなし(296)


  作者は田口益人(たぐちのますひと)という人。「三保の浦」は現在の静岡市清水区の入海で「廬原」も「清見の崎」も三保の浦にちかい駿河湾西岸の地名だ。地名が多すぎ、また「の」という音(字)が四回もでてきてリズムが悪いが、「物思ひもなし」にひかれて引用した。意味は「何の憂いもない」とされる。「ゆたけき」は形容詞「ゆたけし」の連体形で、ひろびろとしたさまでここでは海を指す。お勤めのかたわらで噂に聞いていた景勝の地を眺めて、いいなあと見惚れているのだろう。これも旅情だ。

大君の遠(とほ)の朝廷(みかど)とあり通ふ島門(しまと)を見れば神代し思ほゆ(304)


  柿本人麻呂が九州大宰府に下ったときに詠まれた歌のなかの一首。「遠の朝廷」は大宰府をさす。「あり通ふ」は継続して往来するという意味。「島門」は明石海峡と推定されている。明石海峡をとおって難波と大宰府との間を官船が行き来する。そこから人麻呂は国家の歴史に思いをはせる。「神代」はイザナギ・イザナミ以来の神話的時代をさす。明石海峡には漁労の舟も多いと思われ、それを詠んだ歌も人麻呂にはあるが(256)この歌ではそれを避けた。これは旅情と一括するには不適であろう。人麻呂ほど天皇や朝廷の運命を気にかけ、その繁栄を寿ごうとした人はいない。宮廷歌人として、また下級役人として、普段からそれを課題として思索に没頭したのであろうか。

日本古典文学全集〈2〉万葉集 (1971年)日本古典文学全集〈2〉万葉集 (1971年)
(1971)
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