大洋ボート

白痴(8)

 ドストエフスキーは、ムイシュキンという一個の人物に委託して思想の根っこにあるべきもの、宝石でいえばその原石にあたるものを表現したかったのだろう。ムイシュキンに言わせればそれは、宗教の出発点にゆたかに流れるべき感情であり、ひいては政治思想にとっても看過してはならないものである。全体のなかの中心であり、この世界のはじまりに据えなければならないものであった。またそれは誰でもが手にできるもの、接することができるもの、でなければならなかった。自然の風景でも、子供や女性のうつくしさでもいい。くどいが、そのうつくしさは人間の善への信頼に通じる。それらにうつくしさを感じ取ることが深ければ深いほど、比例的に愛の感情をはぐくみ、隣人への信頼がより増すことにもにもつながる、というのだ。実感そのものと、それにきわめて近い場所で付加された思想がセットになっている。また、ことさら特異な実感やら体験やらではない。ムイシュキンは、彼が抱いたそういう実感が誰にでも共有することができると信じ、そこに希望を置いたのだろう。

 思想といっても、はじめからむつかしい用語を駆使した本を指すのではない。ムイシュキンはちょうど逆で、ロゴージンのような異端思想に真正面から向き合い、知悉して対決するよりも、たえず実感を、そこにある感動を思いだすことに精力をそそぎ、そのゆたかなイメージの懐を大切にした。これは後ろ向きの態度とは言えないだろうか。またそのためもあって、不安を抱えながら他人を、ロゴージンのような死に神を硬直的に信用することをやめない人である。だからこれは青年の成長の物語ではない。ムイシュキンは悪にたいする免疫性を最後まで身につけずに終わる。彼は脆い。てんかんという病もあって、挫折が即退場につながる、あっけないといえばいえる結末をむかえてしまう構造になっている。
 
 思想とは理念をさす。うつくしさを実感として感動としてとらえても、その奥にたしかに存在するであろう本源を肯定的にとらえるか、それとも何も持ち帰らないかの選択は理念に、ひとえにその有り無しにかかっている。そこに「愛」を見いだすためには前もって「愛」という理念がなければならない。つまりは実感と理念がどんなに近接して見えても、両者のあいだには空隙があるのだ。また、理念の裏側には虚無があり、そこにロゴージンのような思想ともいえないような思想が、理念不信が跋扈する余地がある。ムイシュキンはたえず体験した実感や感動に密着したがる。それらをはなれた位置からとらえなおしてみたいという欲求にも人は駆られるもので、客観化のことだが、ムイシュキンにはそういう動きはない。情熱に向き合うことと近接することがもっぱらだ。また同じ実感やら感動やらをたえず、たぐりよせてくり返すことは、それらが擦り切れる運命にさらされることではないだろうか。また虚偽がくわわる怖れもある。だがムイシュキンにはそれはなかった。変化や堕落の時間がないままに、彼は過ぎてしまった、純粋なままだった。この短いがゆえの命の輝きに私たちは惹かれる。ムイシュキンとロゴージンという両極端の二つの人格が、一個の人間のなかに理念の有無の対立という形で、私たちにもドストエフスキーにも平衡をとって棲みついているのだが、この小説にかぎってはムイシュキンに惹かれるのだ。

 それにしてもムイシュキンはいちじるしい理念的傾斜をしめす。ムイシュキンがロゴージンに熱っぽく語るカ所。赤ん坊を抱いた若い母親(百姓女)に接したときのこと。赤ん坊がはじめて笑顔を見せたことが、母の表情変化によってムイシュキンにわかる。母は信心深い様子で十字を切る。

「『おかみさん、どうしたんだね?』ってきくと(あの時分はなんでもたずねてみたものなんだけれど)相手は、『いえ、あなた、はじめて赤ちゃんの笑顔を見た母親の喜びっていうものは、罪人が心の底からお祈りするのを天上から御覧になった神様の喜びと、まったく同じことなんでして』と答えたもんさ。これはその百姓女が言ったことだよ。ほとんどこれと同じ言葉でね。じつに深みのある、デリケートな、真に宗教的な思想じゃないか。この思想のなかにはキリスト教の本質のすべてが、つまり、人間の生みの親としての神にたいする理解のすべてと、親が生みの子を思うと同じような神の人間にたいする喜びのすべてが、いや、キリスト教の重要な思想がことごとく、いっぺんに表現されているんだからねえ! しかもそれを言ったのが、ただの百姓女なんだからねえ! 」(p500)

 赤ん坊の笑顔ひとつが、神と人間の結びつきにまで同時的に広げられている。自分(母)が神ならば赤ん坊は人間だという関係性だ。母子の濃密な情愛関係から自然に漏れ出たであろう感慨だが、それにしても、これが庶民の女性の実感として語られることにちょっと驚く。赤ん坊と罪人の祈る姿が二重写しされているのもそうだが、やはり「天と地」という垂直の関係性への彼女の想いが、何の衒いも飛躍もなく映るからだ。これは私には、あるいは日本人には即座には入り込めない思考習慣ではないか。「地平線からのぼる朝日のうつくしさ」というムイシュキンの述懐は、「こちらとあちら」という水平的な関係性で、これなら私には理解がたやすい気がするのだが。ロシアの庶民には環境的に自然にそなわった思想、連想なのだろうか。もっとも女性にとっては、思想よりも、子供をえて育ちつつあるという歓びの実感の方がたいせつにはちがいないが……。

 ムイシュキンはそれを情熱をもって何が何でも継承しようとする。赤ん坊の笑顔はたしかにうつくしい。だがムイシュキンのこの熱弁は別の意味でうつくしく、かつ危ういのではないか。これまた今日の日本人からは、飛躍的に見えて、ちょっとやそっとでは入り込めない熱っぽさだ。彼の言葉によってくるまれた母子の幸福とその思想を彼は「信念」と呼び、それをつかみとれない無神論は上っ面に過ぎないと批判する。さらにそれは「私たち」ロシア人がロシアから最初につかみとらなければならない「最初の信念のひとつ」とも言う。この熱っぽさからは、ムイシュキンを越えてドストエフスキー自身の情熱が伝わってくる気がする。十九世紀後半のロシアにおいては神が遍在していたのか。まさかそうでなくても、失われて間もないという懐旧の念が行き渡っていたのだろうか。情熱とともに神を実感すること、それが当時のロシアの作家、芸術家たちを焦眉の課題として惹きつけたのかもしれない。無論、言うところの無神論は無神論で、以後ずっと自己主張を喧伝したであろうが。
                   (了)

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