大洋ボート

白痴(7)

 ロゴージンの住居のなかのひとつのドアのうえに絵が掛けられてある。「たったいま十字架からおろされた救世主の像」の絵で、無論イエス・キリストのことだ。長さが1メートル80で高さが30センチ、ハンス・ホルバインという画家の作品の模写である。触発されたのか、その絵を前にしてロゴージンが「あんたは神を信じているのかね、」とわるい眼つきでたずねる。

「ほんとにきみは変なことをきくねえ。それに……その眼つきといったら!」公爵はついそう注意した。
「おれはあの絵を見てるのが好きでね」ちょっと口をつぐんでから、またしても自分の質問を忘れたかのように、ロゴージンはつぶやいた。
「あの絵をだって!」公爵は思いがけなく心に浮かんだある考えに圧倒されて、ふいに叫んだ。「あの絵をだって! いや、人によってはあの絵のために信仰を失うかもしれないのに!」
「そうでなくても、失われかけてるよ」思いがけなくロゴージンがいきなり相槌を打った。(上巻495p)


 ふりかえると、実に冷え冷えとした会話である。残念ながら、絵の内容についてはこのカ所ではまったくふれられない。作者の例によっての引き延ばしで、それを知るためには、同じくこの絵にふれたイッポリートという青年のノートのところまで読まなければならない。(下巻194p以後)それによると、キリストの肖像画はたとえ死の直後であっても、一般的にはどんな苦痛にさいなまれていてもその表情に神々しい美を添えて描くといわれる。それが信仰のよすがになりうるのだが、ロゴージンが所有する絵のキリストの表情には、全面的な苦痛、そのなまなましさ以外の何ものも存在しない。たしかに死は自然の鉄則であり、何人もそれを逃れることはできない。また死に際する生理神経的な苦痛は何人をも正常さを保てなくするが、そういう事実を、絶対的な消失と苦痛という二つを自己の死に対して想像するだけでも人は耐えられないものだ。その絵はそういう死の暗黒面を、こともあろうに宗教画の体裁において拡大し、強調したものだ。そこには正視したくもない無気味な、あるいは偉大と呼んでもいい死の力が充溢している。これを見て信仰をぐらつかせることはあってもその反対はまず考えられない。ムイシュキンが言うようにそういう怖ろしさを秘めた絵だ。この絵の説明がないと、引用の二人の対話はぼんやりとしかわからないのである。

 ここまでくると好色で乱暴者といった作者がふりまいてきたロゴージンのイメージはくつがえされる。それは表面でしかない。ムイシュキンは美しい自然の風景を見て美しいと感じ取り、そこに善と真実を見いだそうとした。それを思想の基盤にして行動の原理を打ち立てた。「あなたを自身を愛するように、隣人を愛しなさい」というイエスの言葉をまるで鵜呑みにするような馬鹿正直ともいえる実践だ。宗教的な態度であっても、私たちには態度がそれこそ自然に見えるところがあって理解はしやすい。目の前にしないときでも、彼はときおりはそれを思い出した。だがロゴージンはまったく逆である。「おれはあの絵を見てるのが好きでね」というロゴージンは、自然の持つ暗黒面をのみ凝視するのだ。信仰をも滅ぼしかねない死と苦痛をもたらす自然を。だがこれは凡人から見ると異様だ。想像したくないことを無理をして、死に少しずつ近づくようにして想像しつづけるようにしか受け取れない。自然な態度ではない。いくら暗黒面を想像する場合でも、人はそこになんらかの光明や美を逆に見いだしたがるものであるから。反信仰に暗い緩慢な情熱をそそぐのも信仰的態度といえるのか、この小説でしばしば言及される無神論のたぐいだろうか。私は疲労と病理がこの男をむしばんで、ぐったりしているように見える。特異な信仰のもつ毒がまわったのか、もともとの病理がそういう信仰ともいえない信仰に向かわせたのかはわからない。ともかくも、自然のもつ暗黒の力が力であれば、彼をもむしばまずにはおかないのだろう。彼は冷笑的だが、自信家なのかそれとも自信を喪失した男なのか、どちらとも受け取れる。作者はロゴージンとはともかくもそういう男だというのだ。私はここでまたしても「地獄において身のみを滅ぼしうる者をおそれるな。身をも魂をも滅ばしうる者をおそれよ。」というイエスの言葉を思い出す。ロゴージンはどちらだろうか。

 かくして引用した対話において、ムイシュキンとロゴージンは信仰をめぐって相対立するという構図ができあがっている。だがロゴージンは口数が少ない。また「あんたの信仰はまちがっている」とか「おれはあんたを殺したいんだ」とか腹の中はそうであっても、あからさまには言わない。またムイシュキンがロゴージンとナスターシャの二人しての幸福を願っていてそのための行動をいとわないことも知っているから、なおさらその沈黙は無気味だ。あるいは、そこにはロゴージン自身の意志と行動とは正反対の友情さえも芽生えかけている、ととらえることもできるのかもしれない。殺意を具体化する直前には、ふたりは首にかけた十字架の交換をして友情を誓い合ってさえいる。揺れ動いている、そんな風に見えなくもない。一方、ムイシュキンはムイシュキンで、死が自然の一鉄則であることは知っているが、あからさまなそれを人の想像の中心に据えたり、人為によってそれを引き込んで手を染める(殺人)ことは考えることができない。あってはならないことだ。たとえそういう人が目の前にいたとしても、その存在を認めたくはない。ロゴージンがそういう人であることを予感はともかくも認めたくはない。

 ナスターシャはロゴージンをどうとらえているのだろうか。彼等の直接の対話はこの小説にはいっさい出てこない。だからムイシュキンが両者の聞き役になって引き出された言葉から両者の関係を推察するしかないが、これがまた作者の謎かけなのだ。たぶん彼女はロゴージンの人となりを知悉している。表面的には二人とも遊び好きで荒れていて気が強いのだが、それは一過程にすぎない。彼女は自殺願望を持つ女だからこそ、殺人者としての影がちらつくロゴージンに惹かれるととらえるべきで、くっついたり離れたりをくり返すのはナスターシャの「ためらい」なのだろう。ムイシュキンに接近するのも、あともどりしたいとの願いが頭をもたげるからだ。ロゴージンの方もまた彼女の自殺願望を日をかさねるうちに勘づくことになるのだろう。そこではお互いの燃え尽きないしぶとい志向をそそのかし合うほかは考えにくい。

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