大洋ボート

『万葉集』巻一・18

  私は暗誦力がとぼしい。気に入った詩歌があっても忘れてしまうことが多い。その代わりというのでもないが、詩歌がもたらす映像や空気を覚えることですましてしまう。だがそういう覚え方は本来的ではなくあやまって理解してしまうことにもつながる。当の詩に再会したとき従来抱いていたイメージの修正を迫られる。

三輪山を然(しか)も隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや(巻一・18)


  この短歌では雲の映像として覚えていた。作者は見たかったのは三輪山という低いなだらかなありふれた、しかしながら思い出深い山で、その姿を雲が隠してしまったので残念がっている作者の心を読んだ歌である。とくにこの歌がつくられたのは天智天皇の近江遷都にさいして、作者額田王も随行のために大和を離れなければならなくなったその当日にあたり、慣れ親しんだ土地の象徴といえる三輪山を瞼に焼きつけていきたい、名残を惜しみたいという思いがきわまった限定された時間である。額田王にすれば雲は邪魔者であるはずだが、私はなぜかこの雲をうつくしい存在として記憶にぼんやりととどめていた。だがそうではないのだ。
  この歌は言葉が流麗でたくみなところが長所だ。品詞分類は苦手だが「三輪山」「雲」「心」といった名詞に「しかも」「だにも」「あらなも」「べしや」といった副詞、助詞、動詞、助動詞などが無理なく付加されて、たいへん滑らかな言葉の流れとなっている。それに映像がじつは二重になっていることもわかる。ひとつはいうまでもなく山を隠す雲であり、もうひとつは作者が万感の思いをこめた三輪山という山である。読者はとくに三輪山にたいする思いが強くなければこの映像は見落とすことになるのかもしれない。私は仮想する。もし雲が三輪山を隠さなかったならどんな歌になっただろうかと。額田王だから立派な歌がつくられたのだろうが、現存の歌のもつ二重性の構造はもたなかったのかもしれない。故郷の思い出深い山をいつくしもうという思いと、雲がその姿を偶然にもここぞというときに隠してしまい残念がる思い、この二つの心がつながってひとつになり「心の動き」としての歌があらわれる。
  言い訳すれば、心の動きをたくみに読み込んだ歌のうつくしさが余韻となって、私における雲のうつくしさという誤解した映像記憶になったのかもしれない。雲の映像はのこるが、それはうつくしくはない。

万葉集〈1〉 (1976年) (新潮日本古典集成)万葉集〈1〉 (1976年) (新潮日本古典集成)
(1976)
青木 生子

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