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星野智幸『俺俺』

俺俺俺俺
(2010/06)
星野 智幸

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  なかなか読み進めない小説だった。とくに序盤を過ぎたあたりから、作者が空想的な設定をして主人公や近しい人物らがその設定に最初は喜びながらもやがては翻弄されるさまが、設定の仕組みそのもののわかりづらさもあってよく呑み込めなかった。それと生活実感のちがいも認めざるをえなかった。なにかしら作者や主人公に共感できるものがあってとくに長編小説は乗ることができておもしろく読めるのだが、今回はそれがあるにはあったがわずかで窮屈さのほうが先に立った。主人公らは自分たちが落ちこぼれで不幸であるという自覚を痛切に抱いているが、私も境遇は似たようなものであるとしても、それほど「不幸」だとは自分では思わないのだ。私が歳をとったからでもあろう。だが主人公(二十代後半)の痛々しさは私の若い頃にまったくなかったわけでもなくその擦過傷のような記憶は残っていて、それが手掛かりにはなった。
  題名からして振り込め詐欺のことを書いた犯罪ものかなと思ったが、導入部はそのとおりの展開であるにしてもそのあとはぜんぜんちがう。永野均がマクドナルドで他人の携帯電話を盗んでしまい、登録してあった「檜山大樹」の母に連絡して自分の銀行口座に入金を依頼する。「母」は見事に騙されて振込みをする。それどころか永野のアパートに押しかけてきて世話をやいたり、愚痴やら世間話を垂れながす。つまりは「母」は相手が永野ではなく息子「檜山」と認識して露ほども疑わず、仕方なく永野は「母」を前にして自分は永野ではなく、息子「檜山」になって相手をする。書き方からしてその「母」が認知に支障があるのでもなさそうで、面食らった永野は念のためというのか、何年間か帰らなかった実家(近距離)を訪れる。だがそこにはすでに自分ではない「永野均」が住み着いている。正真正銘の母もいるが、訪問者を「永野」とは認めてくれず住み着いた「永野」とともに犯罪者扱いをして追い返そうとする。訪問者の永野は引き返すしかない。つまりは作者の設定として、永野からみれば永野と檜山はそっくり入れ替わっているのだ。しかし実家に「居座った」かにみえる「永野」が以前に「檜山」であったとしたならば「入れ替わり」には違いないが、その点は不明のままである。はじめの永野(=のちの檜山)の主観の観点から小説は進行する。ちなみに職場においては永野は檜山とのちに呼ばれるが、職場そのものは以前と同じだ。
  さらにここからが作者のもう一つの重要な設定で、訪問者の「永野」は実家の永野を「」(本文もゴシック体)だとつよく認識する。この認識は実家の永野にも同時に生起する。やがて二人は連絡を取り合い親密さを増していく。
  俺が相手をとして即座に直感し認識してしまうとはどういうことか。おそらくは自分を不幸だと自認してもがく人間だと相互に直感するのだろう。似たもの同士ということだ。実際にそういうことができるのかといえばできないに決まっているが、作者の小説的設定としてそれはあり、作中人物がそれにふりまわされるという展開になる。
  俺の関係は心に鬱積した不幸や憤懣をなんの遠慮もなくぶちまけられ、相手の不幸にも耳を傾けられる。職場の人間関係では理想的な職業人としての人間像を演じなければならない。同僚の陰口は言いあってもいいが度を越してはならない。また会社組織にたいする批判はつつしまなければならない、自分を不幸だと嘆くのもあまり本質的であってはならない。最初の永野の職場の家電量販店では売り上げを伸ばすことを要求されるのは無論だが、独断であまりに値下げをしてはならないし、かといっていちいち上司に伺いを立てるのも嫌がられる。総じてストレスが溜まるのだ。それに最初の永野(後の檜山)は写真が趣味でそれを生かした職業に就くことが理想であったが、それがかなわなかったという落ちこぼれ意識を払うことができないでいる。「後の永野」は市役所に就職できたはいいが、現在の職場は生活保護申請の可否を決定するケースワーカーという位置にある。これもストレスが溜まることが容易に想像できる。職場では「俺」は素裸の俺としては決してふるまうことができない窮屈な存在だ。
  俺の人間関係は拡張した自己ということの幻想だろうか。職場的(社会的)人間像からの解放を作中人物はいったんは勝ちとることができる。孤独なアパート暮らしにくわえて別の根城ができるのだ。仲間をえて自分らしい自分になった気になる。だが甘さが露出してくる。いくら告白したところで職場での事態は変わるものではなく、いい知恵が出し合えるのでもないことがわかってくる。俺は密着しすぎるのだ。のちに三人目のになる大学生のナオもふくめて、俺が自分の不幸を独力で打開することができないかぎり仲間のにも無論それはできないのだし、の不幸を俺が解決できないことも自明になる。つまりは(他者)の不幸を不幸のまま俺(自分)は自分の不幸のうえにさらに背負い込むという自体に発展する。さらにの認識には制限がないので無数のが三人の前に出現し苦しめることになり、ここからへの憎悪と殺意にまで発展するのは一直線に見える。
  自分の不幸を自分で解決できず、さらにそのうえにの不幸がかさなってくると感情が鬱積して捌け口をもとめることになる。人々が削除しあう社会関係が檜山(以前の永野)によって透視され幻想される。このあとは凄惨な事件の連続となる。ナオが何者かに殺された現場に檜山(以前の永野)が立ち会う場面には心理的な迫真性があってうそ寒い。一家皆殺し事件とか秋葉原の無差別殺人事件をモデルにした出来事などが連続し、やがては檜山は高尾山に「避難」して原始人のような生活に行きつく。
  人間関係の濃密であるがゆえのどうしようもない息苦しさを描いた作品で、鋭い問題提起がなされている秀作にはちがいない。だがケチをつけるのではなく言ってみたいこともある。
   私たちは弱い存在で、どんな近しい人であれ、他人の不幸をそっくりそのまま意識に受け入れてしまうとたちまち平穏さをうしなうのではないか。逆に言えば、平穏を保つためには他人の不幸が流入してくるのをほどほどにして遮断しなければならない。自分の不幸ならばどこかでそれをごまかしたり逃避しなくてはならない、不幸の意識をつきつめるとよけいに不幸さが募ってくるというものだ。職場的存在が癪ならば、それ以外のもう一人の自分を自分勝手でもいいから作ってしまうことで切り抜けられないものだろうか。檜山(以前の永野)は写真撮影に解放感を感じるらしいが、どうもそこがあまり力を入れて書かれていない気がする。親にしきりに結婚を勧めらるが、乗り気がしない、子供にも魅力を感じないという檜山の感慨を書いた部分。

  いや、子どもなんかはどうでもよくて、問題は俺が誰とも暮らしたくないという事実だ。(中略)本当の問題はいつだって、電源がオンになっているときに起こる。電源がオンになれば、プログラムで型どおりにしか動かず生身の俺など理解しない親という連中に関わらなければならないし、同僚と同僚らしくつきあわなければならないし、自分のキャラを立てる努力をしなくちゃならないし、自分を説明しなければならない。俺は絶えず俺でいなければならないのだ。生きている間じゅうずっとそんなことをしていたら気が狂うので、スイッチをオフにする必要がある。それで俺は一人の時間を大切にする。俺が俺をやめる時間に安らぐ。そのときに誰かがいたら、俺はオンでなくてはならず。俺は俺でいなければならず、電源の切れている時間は寝ているときだけという恐ろしい事態に陥る。(p62)


   現代の職場が苛酷さを増していることはうすうすではあるが想像がつく。それにしても主人公は人間関係に意識を密着させ過ぎてはいないだろうか。オフの時間において完全にオフになるのではなくて「もうひとりの俺」が始動する人物像が私の理想なのだが。二人の俺がいて一人の俺がダメダメであっても、もう一人の俺がまだいるんだぜという自負。だから人間関係においてはひとりの俺で十分というある意味楽な感覚があればいいと思う。唯我独尊と揶揄されてもかまわない。だが作者星野智幸には意図があって、そういう人物像をあえて選ばなかったのかもしれない。

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