大洋ボート

白痴(6)

 エパンチン家の人びとが引っ越していった翌日か翌々日に、モスクワ発の列車で、レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン公爵がペテルブルグへやってきた、彼を停車場に出迎えたものは誰もなかったのに、公爵が車を出るとき、その列車で到着した人びとを取り囲む群衆のなかから突然、誰かの怪しい燃えるような二つの眼が、ちらりと注がれたように公爵には思われた。(p428) 

のちにわかるが「怪しい燃えるような二つの眼」とは、じつはロゴージンその人のものだ。ムイシュキンは彼自身では判然とはしないが、例の察知力がここでは彼の自覚を追いぬいてはたらいている。彼はそののち何回となく、同じ眼をロゴージン宅を訪ねる前後に周囲に見つけてしまう。ロゴージンはムイシュキンを殺そうとして、あるいはそれをためらいながら尾行していることが後にわかる。だがムイシュキンには本能にも近いと読者に思わせる善の思想がある。彼は関係する人に憎まれることをした覚えはない。すべてはよかれと思ってなした行動であり、もし憎まれるのならば誤解であり、誤解を解く用意もある。だが「二つの眼」はそういうムイシュキンの思想を突きぬけてくるように執拗で根深い。たしかにロゴージンにとってはムイシュキンは恋敵にあたり、消してしまえば、ナスターシャが手に入れやすくなると考えても無理はない。だがムイシュキンは彼等二人が幸福な結婚生活ができれば喜ばしいと思っている。気弱なのではない、人の幸福を第一に願うのがムイシュキンであり、そういう彼であることはロゴージンも知っているはずなのに。モスクワ?でもペテルブルグへ帰ってきてからも、そういう話し合いを二人は持っている。にもかかわらず、ロゴージンはムイシュキンに燃えるような憎しみを抱くかに見える。ムイシュキンにはその理由がわからない。わかるということはその殺意の存在を認めることになるから、わかりたくはない。だが彼の嗅覚のような察知力は彼の本能にも近い思想を裏切る方向にはたらく。ついにここでムイシュキンは彼の思想と察知力とのあいだで分裂に陥ることになる。ために自己嫌悪と「憂愁」がつのってきて彼を苦しめることになる。だがやはり、信じるために、信じたくない事象を無視しようとしながら、彼はロゴージンに近づく。

 ロゴージン宅を去ってから投宿しているホテルまでの帰路もまた彼のロゴージンへの接近の過程だ。彼の察知はロゴージンが近づきつつあることを感覚するが、帰路のコースを変更したりはしない、つまり逃げないのだ。この間の描写はさすがに白熱する。ロゴージン宅で見たのと同じナイフを売店で見るのも夢幻的だが、彼の察知にとっては真実であり、そういう真実味に読者は少し距離をとりながらもはらはらして読まされる。読者は、ムイシュキンの肉体の一部に小さくなって宿り、彼についていき、彼の視線をとおした風景と夢幻だけが見える。彼のなかでどんな想いが起こり消えるのか、そのとき読者にはわからない。第一読んでいる最中はロゴージンの殺意さえ読者にとっては明瞭ではない。ドストエフスキーが故意にぼかして引き延ばす書き方に終始するからだ。だからこの「ぼかし」は、ムイシュキンの内面とロゴージンの殺意とのに両方にかかっている。小説でしかなしえない「ぼかし」で興味をながびかせるための技巧だが、ムイシュキンの自分自身を理解したくないという心性ともぴったりかさなって、この長編のなかでも薄気味悪い印象を強く残す。ふりかえると、彼にはロゴージンの影がくっきりと見えていながらも逃げない。殺意を信じたくない、ということは殺意への無抵抗をぎりぎりまで維持しようとする。また同時進行的に、てんかんの発作の予感が彼を苦しめる。外部への恐怖と無抵抗がその記憶を残したまま、内部に対する同量の恐怖と無力に変わる。やがて忍耐の限界を超えたように、彼は発作に襲われて倒れる。私の書き方は唐突だが、小説ではたいへん巧妙に連続的な過程として書かれている……。ドストエフスキーはみずからの罹病体験から、てんかんに思想的意義を付与しているが、立ち入る余裕がない。そういう方面の素養がないと、うっかりしたことを書いてしまいそうだ。ただ小説からは、自己嫌悪と憂愁それに恐怖がムイシュキンのなかで鬱積した果てに起こりうる病理現象として理解できるばかりだ。ともかくもロゴージンはホテルの階段の踊り場の身を隠せる場所で、ナイフをふりかざしてムイシュキンを待ちかまえているのである。

 前後するが、ムイシュキンが訪ねたときのロゴージン邸のたたずまいを作者はこう書いている。

 その家はどす黒い緑色に塗られた、少しも飾りのない、陰気な感じのする大きな三階建てであった。前世紀の終わりに建てられたこの種の家は、きわめて少数であったが、移り変わりのはげしいペテルブルグにありながらも、このあたりの街ではまったく旧態依然として残っていた。これらの家は壁が厚く、窓が少なく、とても頑丈に建てられている。一階の窓にはときどき格子がはまっている。多くの場合、一階は両替屋になっている。上は、両替屋の厄介になっているスコペエツ(訳注 禁欲を旨とする宗派の人びと)が借りている。外見から見ても中へはいってみても、何だか愛想がなくてかさかさしており、いつも物陰へ姿を潜めようとでもしているような感じがする。(上巻p461)

 ドストエフスキーの小説には会話や独白、手紙のたぐいが非常に多く占めている。それだけ風景や人物、事物に対するいわゆる客観描写が少ない。少ない分だけ読者は見落としがちになる。が、引用した部分は引っかかるものがある。無学なため、何ら解釈を提示することはできないが……。ロゴージンはこの「どす黒い緑色に塗られた」「陰気な感じのする家」の二階を借りているのだが、彼自身はスコペエツ派には属していない。彼の父も同じだったが、ただ父はその宗派の人を尊敬していたと、ロゴージンは語る。ここは、この長編小説全般にわたってムイシュキンの口を借りてドストエフスキーが展開する宗教批判、無神論批判とつながりがあるようにも思える。仄めかし程度で、作者はふかくは立ち入らないが、記憶にとどめておいてよいところかもしれない。一階が両替屋なのも何故だろう。そういえばエパンチン、トーツキイ、それにガヴリーラの妹の結婚相手であるプチーツィンらは、両替屋ではないが同じ金融業である金貸しを副業または本業として営んでいる。またレーベジェフ、ガブリーラその他、金への執着が旺盛ながらそこからあぶれた人たちや貧乏人も多く登場する。作者はその一人ひとりには好意的であったりそうでなかったりと一様ではないのだが、拝金主義そのものに対してはやはり批判的である。つまりこの小説には宗教と金にまつわる話がてんこ盛りにあって、その雑駁性のなかにムイシュキンはじめ主要な人物が島のように浮かんでいる。そしてロゴージンの住居のたたずまいも、ロゴージンに関する宗教と金にまつわる何らかの暗示を読者にあたえようとするようにも読めるのだが……。寄り道をしたのかもしれない。


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