大洋ボート

白痴(4)

 ナスターシャもまた、ムイシュキンと同じように幼児期に両親と死別した生い立ちの人である。トーツキイというエパンチン家とも交際のあるプチプル階級の男に援助してもらって育ったが、これが悪い男で、十代半ばにもなると彼女を性的な慰み者にしてしまった。この点ではムイシュキンがスイスで出会った娘さんと同じ運命を刻まれた。このことが彼女に「底深い影」を落とすことになる。成人してペテルブルグに居を移すが、やはりトーツキイの金銭的援助を甘受する。だが彼に対してはきわめて反抗的で、彼が別の女性とねんごろになろうとするとその現場へ押しかけていく。また、トーツキイの彼女とのあわよくば結婚を、という望みにも知らん顔だし、トーツキイの援助をいつでも捨ててしまえる用意もある。そんなナスターシャだが、みずからをあばずれと呼んではばからない。美貌と小遣い銭くらいの金が惹きつけるのか、素性の怪しげな男女どもが彼女に吸い寄せられるように集まって来て、彼女はいつも彼等をつれて遊びまわっている。エパンチン家の人々はじめ、それが外部からよくわかり、ある人たちにとっては悪評判だ。そこでトーツキイは、ナスターシャをおとなしくさせようとして、また身辺からとおざけようとして、エパンチンと組んである青年と結婚させようとお膳立てをする。青年はガブリーラ(ガーニャ)・アルダリオノヴィチといって、出世のためには手段を選ばない野心家であり、またムイシュキンが一時的に下宿することになるイヴォルギン将軍家の長男である。有力者の紹介で結婚を果たすことが、この時代でも出世の糸口になるのだろうか、またトーツキイがナスターシャに持参金を持たせることもガブリーラは知っている。彼はそれ以前はエパンチン家の三女アグラーヤとの結婚を望んだのだが、トーツキイらの話に乗って切り替えたのだ。そしてそういう諸々の事情をナスターシャは情報網によって、ことごとく知り尽くしている。彼女ははなから結婚話にのるつもりはないのだが、それは隠して最後の返事をするからと言ってガブリーラを自宅に招いて、さんざん愚弄する挙に出る。この愚弄ぶりを作者は、ナスターシャを借りて、力を込めてうんざりするほどに長々と書く。ガーニャのモデルになった人物がドストエフスキーの近くにいて、その人物をよほど憎んでいたかのような書きっぷりだ。小心者で姑息で煮え切らないという人物像だが、それほど読み物として面白くはない。そこには彼女の取り巻き連はじめトーツキイ、エパンチンらも招待されて同席することになる。ナスターシャの「名の日の祝い」にあたるパーティだ。彼女にとっては、ガブリーラのプロポーズへの拒絶をこういう場所で宣言することが、トーツキイやエパンチン(彼もまたナスターシャに下心を持っている)らへの訣別の宣言にもつながる、という思いもある。そして、この小説の主人公ムイシュキン公爵もその場にいる。

 彼はその場でナスターシャにはじめて出会ったのではなく、イヴォルギン邸に不意に訪ねてきた彼女をすでに目にしていた。そこではたいして話し込むこともなかったが、彼女とガブリーラとの結婚話を知った。ガブリーラとは話をし、事情を知ったので結婚の見込みがないことを彼に忠告した。父のイヴォルギンは飲んだくれで駄法螺吹きで家族の厄介者だが、ナスターシャは彼を愚弄した。また結婚に反対する母や妹とガブリーラとの対立をかえって煽ることもした。その一部始終をムイシュキンは見ていたからだ。だが欲ボケでガブリーラは耳にはいらない。またそれ以上にムイシュキンは、写真からえたくだんの「底深い影」の印象をより深め、より確信するにいたった。ナスターシャのはげしい人柄からして何かとんでもないことが起きるにちがいないと危惧をつのらせて、招待されてもいないのに駆けつけた。彼をイヴォルギン邸の召使いだとナスターシャは誤解していたくらいだ。参加者のくだらない話がつづくなか、ナスターシャはムイシュキンに好印象をもって会話を交わす。だがそれも束の間、そこへパルヒョン・ロゴージンという男が、あらくれ男たちをしたがえて乱入してくる。彼はどこかでナスターシャを見てひと目惚れしたのだ。その後彼女とは、グループ交際という状態にまで発展して、ついにその夜、ガヴリーラに対抗して彼もまたプロポーズするにいたる。おまけにトーツキイの予定する持参金の額を上回る現金まで用意して来た。冗談めかしてナスターシャが口に出した金額を馬鹿正直にそろえたのだ。そしてナスターシャはロゴージンの勝利を宣言する。「私をロゴージンがせりおとした」と。そして落胆するガヴリーラに対して、ロゴージンが用意した金をそっくりくれてやろうとする。ただし普通のやり方ではなく、彼女一流の気性の激しい、意地悪なやりかただ。金に対する執着がとかく評判のガブリーラだから、それを試そうとするかのように、包装した現金を暖炉に投げ入れて、やけどをしてでも彼みずからの手でつかみとらせようとするのだ。ガヴリーラは動揺きわまって失神してしまうのだが……。だがこの場面と前後して、ムイシュキンもまた、まるでおろおろしながら、ナスターシャにプロポーズしてしまうのだ。

 周囲の人々もそして読者も、ナスターシャの振る舞いは乱暴狼藉以外の何ものでもないと受け取るにちがいない。だがムイシュキンはまったく意想外のことをナスターシャに叫ぶ。いちいち翻訳文どおりではないが、あなたほど純潔な人はいない、あなたはロゴージンの情夫なんかではない、ロゴージンの元へ走ろうとするのはあなたの発作だ、あなたは尊敬に値する人で、あなたは私に名誉をあたえることのできる人だ、等々。うろたえた様子に染まりながらも、確信を持って言葉を吐き出す。どうしたことだろう。目の前のナスターシャを見ながら、普通の男性ならとてもこんな言葉は思いつかないし、吐くこともできない。これはムイシュキンの以前からの主観にうつったナスターシャに向けられた言葉だ。美しい女は何をしても美しく見える、行動はまちがっていても心はきっときれいだ、というたぐいの呆けた恋愛感情(ガヴリーラがそれに当たる)とは異質だ。だが表面的には瓜ふたつで紙一重の差しかない。それにしても、彼が言う、あなたは私に名誉をあたえられるとの言葉はあまりにも破天荒だ。強烈さをこめて気を引こうとしているのだ。また、ガブリーラに対するいじめを止めさせようとする動機も無論かねている。だがムイシュキンはナスターシャに無条件に隷属したがっているのではない。

 唐突だが私はここで「貧しい人や、罪人こそ幸福者だ」と言ったイエス・キリストを連想する。ムイシュキンにとってナスターシャはこの世で一番「虐げられた人」であり、彼が憐れみを持って接しなければならない、そして「虐げられた人」は決して悪人ではない。また重要なことだが、永遠につづく罪もない。これは彼の思想であり、イエスとも通じる性質のものだ。ムイシュキンはうつくしい自然を眺めるように健康な生活をおくることが、その条件をあたえることが「虐げられた人々」を解放すると素朴に考える。イエスのようにみずからの権威で病や罪を癒したりゆるしたりはできないのだ。またムイシュキンの察知(洞察)では「と同時に、なんとなく人を信じやすいような、おどろくほど飾り気のない素朴さといったものがあった。」という気質もとらえられている。ムイシュキンの言葉がつうじる人として、彼はナスターシャを見なしている。そこまで彼が理解を及ぼすことができることが小説的フィクションであるにせよ。

 だが同時に、前に書いたここと一見矛盾するが、私はムイシュキンが恋愛感情のまっただ中にいる気もする。恋愛感情とはわけのわからないものだ。書いたように奉仕とエゴイズムがいっしょくたになったものだが、それ以前にわけのわからないものではないか。混乱に輪をかけるが、別の見方も私にはある。作者と読者の情熱の質がいつも同じとはかぎらない。作者の情熱についていこうとすると、読者はともすれば自分の得意な情熱をいつのまにか引っ張り出しているのではないか。情熱の質の個人差など早急に変わるものではない。私は理解をせずに、私の恋愛感情をムイシュキンに投影するに過ぎないのか。それとも恋愛と奉仕の感情をわけることに、私はこだわりすぎるのかもしれない。

 恋愛感情そのものは、ムイシュキンにとっては美ではないのかもしれない。だがナスターシャの放散する美「このまばゆいばかりの美しさ」は、まちがいなく美であり、その美はまたムイシュキンが賞賛してやまない自然の風景の美と、美としてつながっている。ムイシュキンが頼りにするものだ。両者の美がまったく同一とはいえないが、また美がナスターシャのすべてでもないが、ムイシュキンは同一だと見なしたくて堪えるのかもしれない。美にひれ伏すことが彼の思想なのだし、美=真=善なのだから。ともかくも、ごった煮のような彼のそういう世界をすべてをナスターシャにぶつけることによって、恋愛という雑駁な意識の世界そのものからとびでようとする、みずからのなかで強引にねじ伏せようとする、忘れようとする。そして彼の願いと行いは必ずやナスターシャの心に届く、ナスターシャを救うことができる、という思いが洞察とともに賭けられている。私はそんな風にムイシュキンを理解したい。

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