大洋ボート

ヘミングウェイ「身を横たえて」

 戦争のさなかにあって、戦争を意識しないで済むひとときがある。それも努力や工夫の結果ではない。逆に戦死をおそれ、その瞬間に対処しようとするための不眠によるものだ。最前線の後方7キロの位置で、ニック中尉は副官とともに宿営所の蚕室で身を横たえている。だがその間、目の前の戦場ばかりに意識が集中されるのではない。いつしか思いは故郷や家族や知人や女性におよんで、夢うつつの境遇にさまよいこんでしまう。たのしい思い出が、可能性としての死を、ごく自然に忘れさせてしまうのだ。軍隊生活という隔離された状況の中で、こういう風に過去に思いを馳せさせるのは、何もニックにかぎらない。大部分の兵がそうだろうし、ヘミングウェイがはじめて小説に書いたのでもない。だがこの短編はそういう心の動きを肩肘張らずに、ごくあっさりと、つまりはありふれたことのように記されていて、たいへん好ましい。

 まず描写は、蚕の桑の葉を食べる音や、蚕が葉の上にぽとりと落ちる音からはじまる。蚕室に一晩中それは聞こえたというが、どんな音だか私にはわからない。ただ、蚕が多くいれば、それほど小さい音ではないだろうことくらいは察しがつきそうだ。「最前線の後方7キロ」の物音もその気になれば、耳を澄ませられるはずだが、そんなことはしない。蚕室の音が「戦場の日常」からの隔離効果をもたらすのかもしれない。ニックの回想は子供時代の鱒釣りが好みだ。内容は秀作「二つの心臓の大きな川」ともかさなる。川の地形、釣りの成果、いろいろな餌を付近から調達して試したこと、などだ。一晩で四つも五つもの川で釣ったこともあったし、同じ川の上流と下流を往復したこともあった。そして、読者にとってそれにもまして好ましいのは、ニックがごく自然に「空想の川」をつくりあげてしまうことだ。

(前略)また、頭の中で空想の川を作りあげてしまう晩もあった。それらの川のいくつかはワクワクするほど素晴らしく、まるで目を覚ましながら夢を見ているような心地だった。それら空想の川のなかにはいまも覚えているものがあって、実際にそこで釣りをしたような気もしている。空想の川が、現実に知っている川とごっちゃになっているのだ。それら空想の川すべてにぼくは名前をつけ、汽車に乗って出かけた。ときには頭の中で何マイルも歩いた末にたどり着いた。

 ささやかだが爽快だ。記憶をたどるのは義務からではなく、気儘とたのしさに促されてのことだから、そこに空想が入り込めば、なおたのしいし面白い。夢うつつにとって空想は飛躍ではなく、地続きなのだ。さらに「いまも覚えている」の「いま」は、唐突だが心地よい。、戦場からとおのいた時点でのニックの「いま」であり、さらに作者ヘミングウェイがこの短編を執筆している時点でもあるのだろう。作者と作者自身をモデルにした主人公とが、このとき幸運にも、たのしさにおいてドッキングしているのだ。ちょっと大げさだが……。そうならば「空想の川」は戦地でのかけがえのない思い出としてヘミングウェイの中に(ニックの中にも)定着したのである。戦場を忘れたひとときの夢見心地がまた記憶と化す。人生の豊かさとは、こういう積み重ねができることではないだろうか。

 眠らない夜の記憶の喚起、「思い出し」は鱒釣りばかりではない。出会った人々のことを思いだして、それらの人々のために「祈り」を捧げるのだが、もっとも祈りにとって座りのいいのは、やはり父母のことらしい。幼児の頃の一番古い記憶は、彼ら二人しか登場しないからだ。たよりない幼児の自身をまもってくれるかにみえる両親の記憶は、通常あたたかいものにちがいない。ニックは結局はこの二人のために祈ることになる。感謝がごく自然に湧いてくるのだろう。「祈り」の長い言葉をときには忘れる、というのも如何にも夢うつつで自由で、共感できる。そういうときには祈りを断念して、他の雑多なことを気儘に思いうかべるのだが。

 ニックは中尉の身分だから、あるいは小隊規模の指揮官なのかもしれないが、他の登場人物はジョンという副官一人。この男は独身のニックにしきりに結婚を勧める。ニックは乗り気でないがおかまいなしだ。こういう人は今の時代にもたくさんいる。だが揶揄してはいけない。死ぬかもしれないという心配など、実際の内心はともかく、おくびにも出さないところがいいのだ。生きて行こう、という前向きの姿勢が表れていて、ニックをも引っぱらずにはおかないように見える。
     新潮文庫「われらの時代・男だけの世界」 高見浩訳 
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