大洋ボート

カミュ『ペスト』(2)

  パヌルー神父はオランのキリスト教信者の中心的存在であり、ペスト流行にさいして二回の演説をする。一回目のそれは、ペストという災いは人間の堕落と信仰における怠慢を見るに見かねた神が下したもうた人間への懲罰であるとする。自然は人間に恵みをもたらす反面、生活と生命を抹殺することさえある。これはともに神の意思であるとする見方で、パヌルーも火山の大噴火によって滅ばされたソドムとゴモラを例として挙げるように、キリスト教成立以来の公式見解である。それでは人はどうすればいいのか。反省を込めて以前にもまして心の底から神にたいして祈祷をかさねることだ。だがそれによってペスト禍がおさまるかどうかはわからない。神は人間の信仰を見守ってくださるが、神の御意思は独立したもので人間が自由に動かせるものではない。人の祈りと神の意思の因果関係は見えない。ペストを選択した神の意志の変更を祈りをかさねることで信じて待つしかない。それが信仰というものだ。だが人々はパヌルーの演説によって厳粛さに目覚めるのかもしれないが、にわかに心強さをさずけられることもなく、ましてやペストが早晩勢いを衰えさせることを期待するのでもない。推測でしかないが、肩を寄せ合ったり息を潜めることで、人々は恐怖から眼を逸らそうとするのではないか。パヌルーの演説は特定の人物をあげて非難するのではなく、オラン市民と神との関係性を語ったのであるからオラン市民のしいては人の神との関係性における平等性に、人同士の平等性に眼を向けさせることには効果があったのではないか、
  だが二回目の演説においてパヌルーは変わる。パヌルーもまた保険隊に参加して骨身を惜しまなかったが、判事オトンの男の子がペストに罹ってベッドで苦悶しながら死に至るのをリウとともに、その一部始終を見守ったからだ。この現実はパヌルーに衝撃を与えた。「神の懲罰」というが、何ゆえ神は罪のないましてや信仰の何たるかを知らない子供を標的に選んだのか。言葉の上で子供にも死後の永遠の命が天国で授けられるといってみても慰めにはならない。「神の不在」という疑念がパヌルーのなかでにわかに生まれる。そしてそういう機会をまさに彼は恩寵と呼ぶ。果てしない闇でしかこの世界はないのか、それとも神が全面的に差配するのか、それを決定するのは人間自身、パヌルー自身だという岐路に立たされたそのときに彼はやはりというか神の存在を選ぶのだ。その選択を強いられることを彼は恩寵と呼ぶ。災厄は人に対する懲罰だという彼の見解が二回目の演説では強調はされないように読める。神によるこの世界の全面支配をあえて信じようとすることが説かれる。果てしない闇は神そのものか、そうではなく神の加護がいまだおよばない領域がこの世界にはある。そうならば神の対場に立って、また神の代理としてみずからの肉体を差し向けることで闇と対決すべきではないか。
  私には信仰者の内面はわからない。だが人々の生活や幸福にたいしては無関心ではいられないだろうし、その安寧を観念的に引き受ける立場として信仰はあるのだろうから、人々の危機は同時に信仰の危機であるとみなす信仰者もいて当然だと思える。またそれがなければ、一般信者の信頼もえられないだろう。その危機の感覚は信仰者独自の領域で、よくはわからないということだ。
  カミュはメルヴィルの『白鯨』に触発されてこの小説の執筆にとりかかったという。『白鯨』のエイハブ船長もまた神の代理を自認して、とうてい勝ち目のないモービー・ディックに立ち向かっていったと私は読んだものだが、パヌルー神父もまたそれに類する破天荒な行動をとる。保険隊の規則には従うものの、彼はみずからがペストに罹ったときその治療を拒否するのだ。ベッドで小さな十字架像を見据えながら神との一体化を念じながら。そして彼はまもなくリウとその母の見守るなかで死んでいく。
  リウやタルーは無心論者で、パヌルーが保険隊に参加しても彼等の見解は互いに変更されることはない。リウは世界を理解することよりも目の前の患者を治療することが先決だという。これにはパヌルーも同意せざるをえない。思想的立場のちがいを超えてペストという共通の敵にともにたたかうのだ。たたかいのさなかにあってもその思想は歩み寄ったり無理な妥協をすることはない。これこそが連帯と呼ばれるつながりの理想的なありかたではないか。そしてパヌルーは見事というしかない最期をとげ、人々の記憶に刻み込まれるのだ。
  タルーは旅行者で裕福そうにみえるが、ペスト禍のオラン滞在をむしろ千載一遇のチャンスとみて保険隊に参加する。彼は死刑反対論者でさまざまな政治運動にかかわってきた。だがほとんどの政治運動には理想社会実現を早めるための殺人を容認してはばからない思想が内在していて、このことがそこから彼を離反させる。だがどうやってそういう殺人から無関係であることができるのか。現実に生きるかぎりは死刑判決や戦争や戦争に反対する立場からの殺人になんらかの縁がついてくる。いわば全員が伝染を蒙るペスト患者だという。そんななかで、どのようにして神なくして聖者たりうるか、「心の平和」にたどりつくことができるかを生涯の課題とする理想主義者だ。彼は主要な登場者のなかではいちばん若いようで、コタールをはじめ猫好きの老人やリウの母など、人への関心が強い。若いことは未来にあるべき時間が厖大にのこされているようにみえる。少しでも「心の平和」をかぎ分けるとその人に自身の未来像をたくすのかもしれない。わけなく老人の姿にあこがれたことは若いときの私にもあった。生きることは生活を繰り返すこと、それも普通かそれ以下の生活をする人々をみたほうが、生活の意味は外部からは見えやすい気がするものだ。だがタルーもまたペストのために生涯を閉じる。
  主人公リウにもどりたい。カミュはこれでもかこれでもかと思われるくらいにリウをして死に直面させる。統計としての厖大な死者数がある。また骸となって土木作業さながら十把一絡げに墓地に埋葬される死者の描写がある。だが死をリウに最終的に刻み込むのは彼が臨終をみとどける子供やパヌルーやタルー、そして電報によって知らされる妻の存在である。死は事実であるが、間近で見とどけた死や身内の死の知らせがより重大であり、その人に真に打撃をあたえる。そうしてリウに彼は敗北者であったという自覚をカミュは促す、さらに身近な死者のさめやらぬ面影が多くの死者の存在にまでつながり、忘却を拒絶させるのだ。また『ペスト』は第二次世界大戦下のカミュも参加したレジスタンス運動をも容易に思い起こさせる。たたかいの理想形をカミュは定着させたかったのだろう。

彼がかちえたところは、ただ、ペストを知ったこと、そしてそれを思い出すということ、友情を知ったこと、そしてそれを思い出すということ、愛情を知り、そしていつの日かそれを思い出すことになるということである。ペストと生とのかけにおいて、およそ人間がかちうることのできたものは、それは知識と記憶であった。おそらくはこれが、勝負に勝つとタルーの呼んでいたところのものなのだ!(p431)


     (了)
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