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カミュ『ペスト』(1)

ペスト (新潮文庫)ペスト (新潮文庫)
(1969/10)
カミュ

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  オランという都市で伝染病ペストが発症し猛威をふるう。オランはアルジェリアの地中海に面した都市で、1940年代のことだから当時はフランス領だった。最初は鼠の死骸があちこちに発見されたことからはじまり、ついに人がつぎつぎ死亡する事態にまで至る。医師リウなどの進言によってペストの疑いが濃厚になり、県知事(オランは県庁所在地という記述がある)はオラン全市を戒厳令下同様の厳重な監視下に置く。つまり全市民の外部との交通が禁止され、外部からの人の流入も禁じられる。食料などの物資の搬入においても検閲を受けなければならなくなる。家族や愛人がたまたま旅行や用事で市外に出ていた場合、無慈悲にも帰宅が許されなくなり、長い期間の別離を強いられるのだ。春に発症したペストは夏には最悪期を迎え一日百人ほどの死者数にまで上昇する。罹患者やその疑いのある者は隔離病棟に収容される。この場合でも家族が引き裂かれる。隔離病棟は増大する一方の収容者数をまかないきれずに、学校の校舎や競技場までが臨時収用されてあてがわれる。
  作者アルベール・カミュがペストの惨状を実際に見聞したかどうかはわからない。また病毒の進行に関してノンフィクション的な詳細な記述を期待すると肩透かしを食らうのではないか。カミュはペストに関する文献を猛勉強した痕跡はうかがわれるが、この小説の目的はペストの猛威そのものよりも、それとたたかう医師リウを中心とした具体的な人間群像にあるようだ。ペストは「見えない敵」だが敵の弱点は、ペストが勢いをしぼませる年を跨いだ冬までついに解明されないままで、そんな中、ペストにたいする最良のたたかいとは何か、また戦いのなかでの意見を異にする人同士の連帯がいかにして成立するか、などに筆が傾けられている。別離と幽閉に苦しむオラン市民の一般的な心理状態もくりかえし記述されるが、主要な人物との形式的な区別はあるにせよ、両者は無関係ではない。とくに医師リウは妻を病気療養のために外部の病院に転地させた直後であるからリウその人の苦悶としても読み取れる。
  リウは謙虚であろうとする。治療の中心的役割を彼は引き受けるがヒロイズムや安っぽい勧善懲悪の観点からみずからの行動を峻別する。彼が行動するのはたまたま医師であるからで、善意がそこにふくまれるにせよ、あくまで専門家としての知識と方法がペストにいちばんの近接点にあるからだ。善意は主観的でありだれでも容易に抱くことができるが、客観的に眺めればそれが悪意に直結することもありうる。善意でもって殺人さえ厭わなくなるものだ。肝心なことは裏づけるべき知識だ。「ありうるかぎりの明識なくしては、真の善良さも美しい愛も存在しない(p193)」だが当時の医学的知識の水準ではペスト撲滅の絶対的な方法は確立されていなかった。少なくとも当小説ではそのような環境下としてカミュはリウをさなかに置く。血清注射を施し、腫れ上がったリンパ腺を切開し安静にさせても患者はばたばたと死に呑みこまれていく。リウにしてみれば「際限なく続く敗北」だ。だがやるしかないのだ。1日の睡眠時間が四時間という疲労困憊のなかで同情も人情もかすれていく。感染の疑いのある人を警官や監視者を同行させて、嫌がる家族を尻目に否が応でも連行しなければならない。
  リウは職業としての誠実さだという。それとともに私はペストという難病にたいする職業的興味が彼を動かしていると読んだ。やがて「保険隊」が彼もそのなかのメンバーとしてつくられる。これは消毒や感染者の運搬や記録やらをボランティアが担う組織であり、彼は周辺の人物に参加を呼びかけるが無理強いはしない。唯一絶対の正しさをその活動に標榜しないからで、狭量な党派性のようなものから最初から脱却できていて、リウの人間的な魅力となっている。彼のいうには個人において幸福追求の具体的な課題があれば、ペストとのたたかいのさなかにおいてもそれを最優先することはなんら恥ずべきではなく保険隊の「善行」は二番目であってもよく、場合によっては断ってもよいという立場だ。ランベールというたまたま取材活動でオランを訪れていた新聞記者がいて、当然長期の足止めを食らう。記者にとってはペスト下のオランは絶好の取材対象にちがいないが、彼はパリに恋人を残している。脱出したくてたまらない彼は、非合法の工作を繰りかえす。市外に通じる出入り口を担当する門衛に、ある人物を介して口利きをしてもらおうとするのだ。リウはランベールを保険隊にさそったが、そういう事情を知ってその心情を理解し、手助けを具体的にするのではないが応援する。先述したようにリウもまた病気療養中の妻と引き裂かれているので、自分が医師という身分でなかったならば、ランベールと同じことを企てたかもしれないと思うからだろう。
  ランベールは恋人との愛という「偉大な感情」を閉鎖下のオランにおいて知った。スペイン内戦に共和国側の義勇軍として参加した彼は「偉大な感情」がなくても「偉大な行為」はとることができるという。外国の戦争への参加においても政治的正義の感情が彼を突き動かしたにちがいないが、それも今となっては「偉大な感情」ではないというのだ。愛のために死ぬこともできるというランベールにリウが共感しないはずもないのだろう。書くまでもなく幸福追求にちがいない。だがランベールの工作は渋滞してすすまない。そのうちにオラン滞在が抜きがたい現実として彼の眼に映じてきて、さらにリウと妻との別離の現状を知らされて彼も保険隊に参加するにいたる。ランベールは長期滞在の結果、自分もまたオラン市民であるという自覚が自然に生じてきて、ペストの惨状を見捨てて愛のために脱走することは「恥」だと思うようになり、後々の後悔までが視野に入ってくる。スペイン内戦に参加したときの公憤と同質のものが蘇ってきたといえるのだろうか。
  保険隊に参加してたたかうのは他に若い旅行者のタルー、市の臨時職員のグラン、パヌルー神父が主だったところである。コタールという男は自殺未遂者であり、グランに発見されて一命をとりとめた。犯罪者であるようだがペストによる混乱によって当局からの追及を免れて有頂天になる。彼は保険隊のメンバーではないが、リウやタルーとときどき街において出会い会話を交わす。一旦は死の寸前まで追いつめられた彼だが、オランの全市民が味わいつつある心細さや孤独をみずからが先んじて味わったという自覚があり、市民への「理解者」であり、それらが彼を優越感にひたらせる。つまりコタールは一見孤独ではなくなった。死の運命が全員に襲いかかることによって孤独の寂しさが雲散霧消してしまったらしい。だから彼はペストが猖獗をきわめ市民が斃れつづけることを願ってやまない。ペストにたいする姿勢や距離のとり方はそれほど多様ではないのかもしれないが、コタールのような極端な人もたしかに存在するのだ。昨年の巨大地震にさいしても自分の不幸と照らし合わせて、多くの人命の喪失を喜悦した人がいるようである。公の発言の場所ではさすがにそれに類した発言はみられなかったが。
  コタールのような人を登場させるのが文学のいいところだ。善男善女ばかりがこの世に存在するのではないことを、その存在が相対的なものとして人の現実があることを知らせてくれる。
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