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阿川弘之『米内光政』

米内光政 (新潮文庫)米内光政 (新潮文庫)
(1982/05)
阿川 弘之

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  米内光政は昭和十五年(1940)に内閣総理大臣に就任した。それ以前にも、また終戦をはさんだ時期にも何回も海軍大臣についた人であり、激動期において表舞台に立つことが多かったのだが、あまり目立った政治的言動はない。だが、私は、そういうことを含めて今回はじめて米内光政という人を知ったに等しい。この時期については興味があり、本も何冊かは眼にしていて、そのおりにも米内の名前は記されていたはずだが、特別に記憶にとどまることがなかった。米内という人は何もしなかったというくらいで、私はかたづけていたのかもしれない。だが何もしなかったということが、作家阿川弘之にとっては逆にきわめて意義深く、米内という人の高評価に結びつけられている。すでに日中戦争がはじまって久しく、また国際連盟からも脱退していた時期に米内は首相になった。好戦的気分が朝野を問わず蔓延していた時期でもあり、ドイツ、イタリアとの三国同盟締結急ぐべしの声が充満していた。その時期にあって米内は同盟締結に反対の立場を貫いた。同盟が締結されたのは、米内内閣崩壊直後といえる第二次近衛内閣の時代(1940年9月)であったから「なにもしない」で踏んばることは戦争反対の立場からすれば意義のあることだったにちがいない。
  対英米戦争反対論は米内一人のものではなく、山本五十六、井上成美をはじめとして海軍の多数意見だった。とくに外国赴任の経験のある海軍軍人の多くはイギリスやアメリカの国力を目の当たりにしていて、その再生産能力は日本との比較において抜きん出ていて、とても互角に戦える相手ではないことを認識していた。「弱腰」ではなく冷静かつ合理的な判断であったのだ。海軍のこの合理主義に賛同する動きは、昭和天皇をはじめとして宮廷内にもそして陸軍にも少なからず存在したという。米内が昭和十五年に部下に語った言葉。 

「陸軍がさかんに精神論をやる。そりゃ精神の無いところに進歩も勝利もない。しかし、海軍は精神だけで戦争出来ないんだよ。工業生産の量、機械の質、技術の良し悪しがそのまま正直に戦力に反映する。国民精神総動員とか、陸軍のような大和魂々々々の一本槍で海のいくさはやれないんだ」(p336)

  今の時代からすればたちまち腑に落ちてしまう意見にみえるが、当時にあっては「大和魂」のほうがその頑迷強固さにおいて合理主義を上回ったのだろう。さらにいえば米内をはじめとして海軍軍人はとくに開戦反対派において政治的宣伝工作が不足していた。陸軍が好戦的気分において上も下もほとんど一枚岩であったのにたして、海軍の場合はその合理主義は上層部のみにとどまっていた観がある。阿川弘之はこの点、公平を期するためか米内について書かれたいくたの文献著作を引用して指摘する。民間右翼の米内や山本にたいする暗殺計画もあったのであり、陸軍においても事態の推移によっては海軍との内戦が視野にあったようでもあり、そういうテロにたいする恐怖が海軍の開戦反対の動きを萎縮させたのか。私にはわからないが、首相当時の米内の政治中枢部における動きは鈍く見えることはうなづける。意見は曲げない、言うべきことは言う、この点では米内も山本も筋をとおしたが、そんなにいくさをやりたければやるがいい「東京が3回くらい焼け野原にな」(山本の言葉)っても知らないよ、式の最後的にはあっさりしたところがあったのだろう。それに最高部の政治的決定には結局は従うという軍人のあり方も彼らは有していた。
  阿川弘之は海軍勤務経験があり、海軍における合理主義は阿川において当時から抱懐されていたのかはこの小説を読んだだけではわからない。阿川のほかの小説を読めばわかるだろう。本書においては阿川は米内光政という軍人政治家に同情的である。のみならず、直接は記されないが自らの体験も視野に入っているのであろう、その合理主義ばかりか、海軍の洋上や陸における生活の様子を米内の伝記的記述をとおして懐かしんでいる。米内の政治家としての活動はこの小説の中盤からはじまるから、それ以前の米内の軍人としての生活の記述も量的に多い。この部分は私にとってはやや退屈だが、阿川や戦中派世代にとっては貴重なのだろう。
  時はどんどん過ぎていく。逆戻りすることはない。この小説を読んだもう一つの感慨だ。とくに戦争という特異な時代には、翻弄された生もあれば青春を決定付けられた生もあり、個々人にとっては重要であり、おりにふれてふり返らされる。できれば戻ってやり直したいと思うこともあるのかもしれない。だがそれはできない。
  またその生は別の生と当時とはちがった形で出会うこともある。米内内閣を倒閣に追い込んだ首謀者のひとり畑俊六(当時陸相)が極東軍事裁判(東京裁判)において被告席に立たされた。米内にとっては政敵に当たる人だが、あえてというか、米内はすっとぼけた演技を交えて畑を擁護した。にもかかわらず畑にはこれが不快で気に食わなかった。時は転じて、米内の没後十年以上経過した昭和三五年、米内の地元である盛岡八幡宮に米内の銅像が立てられることになり、畑は出席した。「除幕式だったかその前だったか、巣鴨を出所した八十一歳の畑俊六が、黙々と会場の草むしりをしている姿を見かけた人がいた。」小説の最終頁である。涙がにじまずにはいられなかった。
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