大洋ボート

ポエトリー アグネスの詩

  日本人またはアジア人は自然の風景に対して融和的であり、これにたいして西洋人は対立的であるといわれる。聞きかじっただけでそれほど深く考えたこともないが時々思い出させられる識見で、この映画を見てまた浮かびあがってきた。冒頭、陽光に照らされたなんともいえないのどかな河の流れが映し出される。豊富な水量で、遠景には低い山の緑がかすむ。日本とよく似た韓国の郊外の風景で、つかの間ゆったりした気分にさせてくれる。河のほとりでは子供が遊んでいるが、まもなく河の流れのなかをうつ伏せになった水死体が運ばれてきて浮かぶ。のちにわかるが、女子中学生が男子中学生に乱暴されたのを苦にして自殺したのだ。見ている私はといえば、それほど驚かない。映画だから、嘘とわかっているからだろうか、たしかにそれもあるだろうが、どうもそれだけでもないような気がする。緑と水と光が豊かな自然のなかでは、まるで水死体さえもその豊かさのなかに紛れ込んでしまえるような気分になってしまう。錯覚だろうか、そうであるにしてもその錯覚に念を押すような場面が終結部にふたたび現れる。同じ河面で同じく舐めるような撮り方だが、冒頭よりも流れが急で、水の色もどす黒い。終結部では、少女と同じ方法をとる自殺者の視点で河が撮られるのだが、寒々しいながらもなにかしら親しげな、死が微笑みかけてくるような一種陶酔感がかすかに漂ってきた。自然と融和的ならばアジア人は死とも融和的で、先んじて死者となった少女とも自殺志願者は主観的には融和できるということなのか。自殺者は画面にはあらわれずに、少女がたぶん自殺志願者に微笑む映像が河面の映像の直前に挿入されていた。
  「自然=死」というものに融和的であることにはにわかに賛同できないが、それこそ無理なくできあがってしまうように見えるこの心身の状態はすごい吸引力をもっているなという思いを抱かされたこともたしかだ。それに自殺という完成体にまでみずからを運んでいく主人公の身の処し方は見事というしかない。
  ユン・ジョンヒは60代で介護の仕事をしているが、言葉を忘れることが多い。医者によるとアルツハイマーの初期症状で、そこでジョンヒはボケ防止のために詩の創作を指導する文化教室にかようことになる。講師は「あなたたちは今まで物を見たことがない」と、言いなれた見解をたれるのだが、ジョンヒは当然わけがわからない。彼女はまた孫の中学生の少年と同居していて何故か遠方にいる母の代わりに面倒を見ているのだが、彼が例の少女を自殺に追い込んだ仲間の一人であることが明らかになる。男子中学生の父親の集まりがあり、そこにジョンヒも誘われて警察の追及をかわすために示談に持ち込もうと相談する。それやこれやがジョンヒのなかで有機的なつながりをもって進行する。ジョンヒはどれひとつとってもおろそかにはしないのだ。
  詩教室の講師がいう「見る」という言葉にはおそらく多義的な意味合いがあるが、ジョンヒはこれを見る対象を自分になぞらえることだと解釈する。孫が仲間を自宅につれてきて自室にこもって遊ぶ場面がある。このときジョンヒはりんごをふるまおうとするが、孫は受付けない。仕方なくジョンヒは「りんごは見るよりも食べたほうがいい」と自分で食べるよりない。このときはまだ「詩の神」は彼女に訪れない。だが次の段階では見事に達成される。示談の相談をもちかけるために男子中学生の父たちが、老婆のジョンヒをつかって被害者の母に会わせに行かせるのだ。ジョンヒは示談金が分担できない後ろめたさがあり引き受けざるをえない。訪れた女子中学生の実家は農家で、母は畑仕事の最中。ジョンヒはそこまで足を運ぶが、途中であんずの実が落ちているのを見て口に入れると美味い。微笑むジョンヒ。「あんずは踏みつぶされて生き返る」という詩句が啓示のように生まれる。「踏みつぶされて生き返る」のはあんずでもあるが同時に自分でもあるということだ。のちにわかることだが、ここで初めてジョンヒは詩作によって心身にえがたい浮揚感を獲得するのだ。それは死に親しみを持って近づくことであり、同時に「生」からとおのいたその分だけ自分も含めた生をより達観視できることにもなる。うきうきした気分そのままにまもなく被害者の若い母と対面するジョンヒだが、肝心の用件を忘れてしまって、自己紹介もせずにあんずを拾って食べたことを告げる。厳しそうな畑仕事から顔を上げて「あんずは木についたものより落ちたもののほうがおいしいです」と応答する若い母。このときのちぐはぐした感覚も印象的だ。まもなく用件を思い出すものの切り出せずに早々に退散するジョンヒであるが。
  老人介護における性の問題もある。詳述はしないが、日常規範においてはとても許せそうにない行いにジョンヒは積極的にかかわる。死に近づいたことによって生の欲望に寛容になれる。また死へのジョンヒの「欲望」は身の処し方をある時点で固定することであるから、それは生への欲望でもあり、共通項として実感できるものだろうか。
  示談が成立するのかどうか不明だが、孫が警察のパトカーに引っぱられていく場面がラスト近くにある。だがもはやジョンヒにとっては孫がどうなろうともいいのだ。自分が決めたことを反芻しながらその幸福感にどっぷりつかっている様子だ。孫のためと思った身の処し方であるが、自分はこうすると決めた、あんた(孫)はあんたで勝手に生きてくれといわんばかりだ)刑事に連行される孫を尻目に、ジョンヒはもうひとりの刑事(この人も詩の会合に出席したりして奇妙な印象をのこす)とバトミントンに興じるのである。なんともいえない皮肉と痛切さを残す映像である。
   映画総体としてうつくしい印象がある。ユン・ジョンヒが誘われるようにして選択した道はにわかに賛同できないが、彼女を連れ戻すことはとてもできそうにもないという強さはある。
  ★★★★
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