大洋ボート

白痴(3)

 ムイシュキンは幼いときに両親と死別し、親戚の人によって育てられた。ずっとてんかんを患っており、最初に書いたとおり二〇代に医師の指導によってスイスで療養した。そして二六歳になって小康状態のまま故国ロシアのペテルブルグに帰ってくる。身よりのない彼だが、たったひとり遠縁の人がいてその人を頼って訪問する。エパンチン将軍家の夫人リザヴェータ(エリザヴェータ・プロコフィエヴナ)ある。エパンチン家は中産階級というところか。結婚前の娘さんアレクサンドラ、アデライータ、アグラーヤの三人がいて、ムイシュキン公爵は華やかな雰囲気に包まれる。そこで今まで書いたような死刑囚やら病気の娘さんやらの話をえんえんと披露して人気をえる。後のことだが、ムイシュキンに育ての親にあたる人からの高額な遺産が入ることが判明して、リザヴェータは娘の結婚相手の候補としても彼に目につけるようになる。だが反対にそういう落ちこぼれ的な人々を熱っぽく擁護する彼を題名のように「白痴」と影で呼ぶ人も出てくる。そして重要なことだが、ムイシュキンはこの小説のヒロインとなるナスターシャ・フィリッポヴナをこの家ではじめて写真!で対面することになる。ひとめそれを見て彼は衝撃を受ける。誰しもが認める美人ではあるが、底深い影がある。見過ごせないほどの不幸を背負っていて、それは彼の「憐れみの心」をいたく刺激するが、同時に早くも彼の自信を喪失させるほどの不幸だ。二度目に写真を手にしたときの彼の印象。

 彼はその顔のなかに秘められていて、さきほど自分の心を打ったあるものの謎をなんとしても解きたいような気がした。さきほどの印象はあれからずっと彼の心を去らなかったので、彼はいま急いで再び何ものかを確かめようとしているみたいであった。その美しさのためばかりでなく、さらに何かしらあるもののために世のつねのものとも思われぬその顔は、前よりもいっそう力強く彼の感動を誘った。まるで量り知れぬ矜持と、ほとんど憎悪に近い侮辱の色が、その顔にあらわれているように思われた。と同時に、なんとなく人を信じやすいような、おどろくほど飾り気のない素朴さといったものがあった。この二つのもののコントラストは、この面影を見る人の胸に一種のあわれみの情とさえ言えるものを呼びおこすように思われた。このまばゆいばかりの美しさは、見るに耐えがたいようにさえ感じられる。(p179)

 私が「底深い影」と言い換えた内容とは「まるで量り知れぬ矜持と、ほとんど憎悪に近い侮辱の色」が顔に表れていることに当たる。読者はここで引きこまれると同時に突き放される。写真をとっくり眺めただけでここまで洞察しうる人がはたしているのだろうか、と。顔の写真を見て私たちは何らかの印象を持つことができ、その人柄を明るいだの暗いだの、素直そうだの屈折してそうだの、さまざまに推察してみることができるが、当たっているのか外れているのかは自信が持てない。まずは正確無比な洞察が可能な人はいないと考えた方が無難だろう。だが、それを前提としたうえで、ムイシュキンは特異な察知能力を持っていることを私たちは知り、それが小説的虚構であることを呑みこんだうえで、彼の察知はたぶん外れないであろうこともそれまでの小説の流れから知らされるのだ。彼の主観にうつったたとえばナスターシャが、即ナスターシャの客観的な像であるという前提でこの小説は成立する。

 ナスターシャは、写真で対面したこのときからムイシュキンにとっては、彼の周りの一番不幸な人として彼の心に刻み止められる。のみならずそれは不幸な出来事と思われるものに対する彼女の一種の「力」の具現化であり、「力」による対抗なのだ。おしひがれそうになっている自身をそれでもって支えている。「まるで量り知れぬ矜持と、ほとんど憎悪に近い侮辱の色」というムイシュキンの印象が、私が言う「力」にあたる。それは彼がスイスのうつくしい自然の奥に見いだそうとして十分には見極められなかった「力」とは近接しているものの異なった、いわばマイナスの力の発現だが、その力の発現量が彼をおどろかせ、彼を圧倒する。彼女への劣等意識さえ植えつける。「なんとなく人を信じやすいような、おどろくほど飾り気のない素朴さ」とは「力」の制圧をいまだ被らずにのこされた部分で、そことの対比でかえって「力」の発現がきわだたせられているのだ。そういう彼女に「あわれみの情」を起こさせるのは、見る者すべてではなく、無論ムイシュキンがもっとも鋭敏にそれを起こす。さらにそのうえにナスターシャの「まばゆいばかりの美しさ」である。彼はおそらくは混乱するであろうし、恋愛本能があるとしてそれを刺激せずにはおかないのだろう。

 恋愛感情に奉仕の気持ちがあることは誰でも体験から知っている。それを上乗せするのか、最初から内在的に含まれているのかは問わないにせよ。また、奉仕以外の気持ちとしては何があるのだろう。美しさに触れたい、独占したい、独占することによって幸福を勝ち取りたい、という切なさをともなった気持ちではないか。だが私たちは後者の部分を相手の異性に見せまいとして、前者の気持ちをこそわかってもらいたいとふるまうのではないだろうか。後者には図々しさがある。性衝動もある、狩猟行動に似たところもある。異性(女性)にとっては、剥き出されたそれは容易に拒絶の対象たりうるだろう。だからこそ私たちは奉仕を異性に対して押し出すのだ。プロポーズ(結婚申し込み)とは、異性に奉仕の気持ちをいくらかでも納得してもらってからでなければ切り出せないものだし、プロポーズ自体にも「一生面倒をみる」という奉仕の気持ちが無論含まれている。悪い見方をすれば、独占欲をおしかくしながらそれを実現しようとするものである。だがムイシュキンの場合は事情はまったく逆である。彼は独占欲とはまったく無縁の人として描かれる。自分の身の回りの最も不幸に見える人を放置することができない、なんとかしてやりたい、そしてそれを担う者は自分しかいない、という気持ちが彼をナスターシャに向かわせる。そうすることが彼の担うべき運命であり、思想的課題だと彼がとらえるからだ。後にもふれるが、ここへきて彼は自然のうつくしい風景から自然に生まれ出たうつくしさを帯びた人ではなく、そういう風に自己規定する人であることが見て取れる。これがムイシュキンによるムイシュキンの思想だ。ムイシュキン一人のためでなく、目に見える範囲での全体のためだと彼が考える思想だ。そうしてナスターシャという女性に対して彼の使命を果たさせる環境が、制度としての結婚であり、それを彼女が受け入れることなのだ。結婚という形式が同じでも、利己的な欲望を隠蔽するための口実ではない。だから彼女が幸福になれることが見きわめられれば、自分との結婚には彼はこだわらず、よろこんで放棄する用意がある。無論彼も生身の人であることは変わりがない。ある女性とベンチで腰掛けることを想像して顔を赤らめるのだから。

 彼は恋愛本能に対しては幼い。そしてそれを独立させて発展させるするのではなく、奉仕の行動と思想に夢中になることによって、そういう方面のことをしだいに忘れ、置いてきぼりにする。私はそう読むしかない。そんなことが人間として偽善なしに、混じり気なしに可能なのか、という問いはここでは無効で、小説という器を利用してドストエフスキーが巧みにつくってしまった人間像だ。作者のムイシュキンのそんな人間像に対する愛着ぶり、苦心惨憺の彫逐ぶりを、読者はなかば酔うようにして見まもるしかない。また、ムイシュキンのナスターシャへの異常な接近ぶりが、周囲の人に誤解を生み、「白痴」という陰口が定着することも彼は重々承知しているが、夢中になってしまうのだ。
 
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