大洋ボート

カミュ『異邦人』(2)

  レエモンに絶縁された女の兄がレエモンへの仕返しをたくらむ。事件の当日、ムルソーはレエモンに誘われてマリーを同伴してレエモンの友人マソンの所有するヴィラ(別荘にあたるか)を訪れる。そこはアルジェ郊外の浜辺にあり、ムルソーらは午前の快適な日差しのもとで泳いだり散策したりして休日を楽しむが、女の兄ら二人連れのアラブ人が待ち受けている。浜辺で鉢合わせになった両者はたちまち喧嘩になり、レエモンは相手の所持していた匕首で切られて負傷する。医者に行って手当てをしてもらって帰ってきたレエモンだが、アラブ人はまだ浜辺を立ち去らずに、岩影で暑さをしのんでいる。ふたたびレエモンとムルソーはこの二人連れと対面し喧嘩になりかけるが、事なきをえる。これはムルソーがレエモンのピストルを預かったさいにそれがアラブ人の目に入ったからと見える。アラブ人はゆっくりととおざかる。また短気なレエモンを制するためにムルソーはピストルを預かったのだが、返すのを忘れたのかそののちもピストルはムルソーのポケットのなかにずっとありつづける。
   このアルジェ郊外の刃傷沙汰からムルソーの殺人にいたるまでの描写が何ともいえず美しく、また不可思議だ。読者は午後になってからの酷熱をじかに体感することはできないのは当然だが、ただただ地上のすべてを溶かし倒すかのような太陽の光が一連のこの場面の中心であり、ムルソーをつうじてそこここの物象の逐一がぼんやりしてきてとおざかり、どうでもいいような感覚に浸潤される。友人が刃物で切りつけられたとはただ事ではない、レエモンは勿論、ムルソーの動揺も如何ばかりかと普通なら感覚してもおかしくないが、読者の私はそこに心が行かない。さらにこのアラブ人は最後には一人になってもまだ浜辺に居座りつづける。匕首で切りつけたときのレエモンの血を、さらにはその包帯姿を視認したにもかかわらず、まだ満足できないかのようだ。憎しみで凝り固まっているのか、ずいぶんと執念深いが、やはり読者の私はアラブ人の心を忖度する余裕がない。まるで人ではなく大きな石ころが眼に入るかのようだ。ムルソーがピストルを手にして退散する直前のアラブ人を眼にしながら「私は、引き金を引くこともできるし、引かないでも済むと考えた。」と重要な心の動きを語るくだりもあり、つまり銃撃の閫がこのあたりから低くなるのだが、そういうことも見逃しかねない。読者の私もまた太陽の光に毒されているのだ。その光に圧倒されるなかで事態が進行する。そしてムルソーがこの人を気絶させんばかりの太陽を避けるどころか、まるでそこが本来的な居場所であるかのように、引っぱられるように浜辺をうろつく。ヴィラに帰るよりも孤独を好んだことは確かだが、それだけでは説明がつかない。ムルソーは混乱と動揺を鎮めようとするのか、よりいっそうの別の混乱をもとめて平衡をとりもどそうとするのか、少なくともムルソー自身ではわからない、ただ大きな必然に導かれて太陽のもとに体を晒し続けることを選んだ、そんな読み取り方以外にはできない。苛烈でありながらも、苛烈さよりも「美しさ」を体感してしまう太陽の光。ムルソーは何も書かないが、読者が感覚する同じことを直感してぶったおれそうな光の真っ只中へさまよいこんでのではないか。そう思いたくもなる。文学の偉大さなのか、眼くらましをこうむるのか。
  ムルソーは孤独を好む人である。また善意の人とのつきあいも好む人だ。この両者は矛盾しない。母の葬儀から帰ってまもない日曜日、一日のおおかたをアパートの窓辺に座って、街やゆきかう人の様子をつれづれに眺める様子は好もしい印象をもたらす。さらには、アルジェは彼の生活の舞台であり、その気候も慣れ親しんだもので、さわやかな午前の光や「憂鬱」と表現される夕暮れ時や午後の酷熱等、控えめな語り口であってもムルソーには執着するものがある。それほど意識されているとも読めないが、逆にそれだからこそ、その執着ぶりにはムルソーのなかにすっかり根をおろしてしまった自然さを感じとれないだろうか。さらに、その気候への執着は「愛」と呼んでしまいたい誘惑にもかられる。
  たくみには表現できないが、人には後戻りできないときがある。ヴィラよりも酷熱の浜辺を選んだことは、最初は意志であったにせよ、困難さを克服しようとするにつれてさらに強固になるとともに最後には惰性になってしまう。最初の意志を覆すほどの気力もなくなってしまい、ますます酷熱のなかに呑みこまれる。肉体はいちじるしく衰弱し、風景のひとつひとつやつい先ほどまでの出来事がムルソーにとっての意味を喪失してくる。とおざかってしまった意志にかろうじて操られて歩く、現在の意志はからっぽでなにひとつ働かず統御できないままの身体の動きだけがみえる。後悔なんてしたくもない、そんなものが入り込む余地がないほどのなにかしらの大きな「必然」がムルソーを動かす。善悪をつきぬけた空洞のなかでのムルソーという存在。

  

焼けつくような光に堪えかねて、私は一歩前に踏み出した。私はそれがばかげたことだと知っていたし、一歩体をうつしたところで、太陽からのがれられないことも、わかっていた。それでも、一歩、ただ一足、私は前に踏み出した。すると今度は、アラビア人は、身を起こさずに、匕首を抜き、光を浴びつつ私に向かって構えた。光は刃にはねかえり、きらめく、長い刀のように、私の額に迫った。その瞬間、眉毛にたまった汗が一度に瞼をながれ、なまぬるく厚いヴェールで瞼をつつんだ。涙と塩のとばりで、私の眼は見えなくなった。額に鳴る太陽のシンバルと、それから匕首からほとばしる光の刃の、相変わらず眼の前にちらつくほかは、何一つ感じられなかった。焼けつくような剣は私の睫毛をかみ、痛む眼をえぐった。そのとき、すべてがゆらゆらした。海は重苦しく、激しい息吹を運んで来た。空は端から端まで裂けて、火を降らすかと思われた。私の全体がこわばり、ピストルの上で手がひきつった。引き金はしなやかだった。私は銃尾のすべっこい腹にさわった。乾いた、それでいて、耳を聾する轟音とともに、すべてが始まったのはこのときだった。私は汗と太陽とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感じていた、その浜辺の異常な沈黙とを、うちこわしたことを悟った。そこで、私はこの身動きしない体に、なお四たび撃ちこんだ。弾丸は深くくい入ったが、そうとも見えなかった。それは私が不幸のとびらをたたいた、四つの短い音にも似ていた。


  第一部の最後の部分である。このとき、ムルソーは太陽に焼かれて気絶しそうになっている。太陽の熱と光線がにわかに強烈になったのではなく、ムルソーの耐久力が崩壊しかかる瞬間に入った、さらに輪をかけるのがアラブ人の匕首による太陽光のムルソーの眼への反射だ。これは偶然によるのか、アラブ人の憎しみをこめた意志、そのうえでの嘲弄なのか、ムルソーにはとりあえずはわからない。もはやそれはムルソーを葬り去ろうとする太陽光の一部、えたいのしれない凶悪な意志をもった太陽光の尖端的意志としかみえない。ムルソーは気絶を避けるには、この太陽光をうちこわさなければならない。アラブ人は刃物を抜いたが、立ち上がらずに寝転んだままだから即座にムルソーに切りかかる体制にはない、そこまでには若干の時間的空隙がある。だがムルソーにはアラブ人の真意を忖度する心の容量がすでに底をついている。レエモンからピストルを預かったさいに抱いた銃撃への心の準備、心の風景のなかに残滓としてある、直前の過去ではあるがすでにとおざかってしまった意志のひとつをとりだすしかない。ましてやムルソーはレエモンからピストルを預かったままだ。太陽光に対抗するためには即座に実行しうるなんらかの行為にしがみつかなくてはならない。それが「正しい」かどうかは、もはや思考する余裕がなくなってしまって立ちどまる暇がない。ムルソーが太陽光に焼かれて気絶してしまったら、アラブ人は安心してムルソーに危害を加えそうだが、はたしてムルソーがそこまで考えたかどうか、あやしい。ただ太陽に対抗するために闇雲に銃撃という行為に走ったと、私には読める。そうして行為した、行為にこめられた意志を解き放った。眠りそうになったみずからをそれによって覚醒させたのだ。一発目から少しの時間をおいての四発の銃撃は、覚醒をよりはっきりさせるため、自己確認であるだろう。そしてそれを終えてムルソーは正常な心の状態に戻る。あれほど辟易していた太陽光や銃撃の直前までの過去の生活を「幸福」とみなす冷静さがムルソーに帰ってくる。「幸福」という言葉がまるで唐突に出現するのも、この場面の不可思議な魅力の一つだ。
  ムルソーは法廷において無罪を主張したりはしない。自分の罪を認めるが、死刑を回避するために卑屈な態度をとったり、涙を見せたりはしない。正直さにつとめるが、法廷内外の自分へのあまりにもの無理解に呆然とする。そして情状酌量の面で、彼はきわめて不利な立場に追い込まれて死刑判決を下される。その後は、ムルソーの死との対話がつづられるが、第一部にもまして私には難解に映る。後日書く機会があるかもしれない。(了)
関連記事
スポンサーサイト
    13:42 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
Comment







(編集・削除用)


管理者にだけ表示を許可
Trackback
http://oceanic.blog70.fc2.com/tb.php/486-c56da384
プロフィール

seha

Author:seha
FC2ブログへようこそ!

カレンダー(月別)
10 ≪│2017/11│≫ 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
最新の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
カテゴリー
月別アーカイブ
全ての記事を表示する
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
ブロとも申請フォーム
ブロとも一覧
ブログ内検索
RSSフィード
リンク