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カミュ『異邦人』(1)

異邦人 (新潮文庫)異邦人 (新潮文庫)
(1954/09)
カミュ

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  主人公ムルソーは魅力ある人物だ。正直で裏表がない。自分の思ったこと、考えたことを率直に行動に表す。人にどう思われるかなどということをくよくよ思案したあげくに行動に移すというタイプではない。世間体やら社会秩序やらから類推して自分がどうあるべきか、そんなことは露ほども考えない、とにかく欲望と必要に応じて行動し、口数は少ないが話すときはまともな言葉で応答する。ムルソーはまた差別主義者ではない。彼の住むアパートの住民には、人によっては相手になりたがらない人たちがいる。かさぶただらけの醜い犬と喧嘩ばかりしている独居老人だったり、自称「倉庫係」の女衒だったりするのだが、どちらにたいしても彼は親切であり、ときには相談にも乗ってやる。べつに博愛主義を旨とするのではなく、たんに可哀想だと感じたり、面白いと思ったりする自分の気持ちがあって、その延長線上に彼の親切はあるのだ。だから彼としては人が何と言おうと、その親切は彼のごく自然な気持ちを率直に表現した結果であり、それ以外の余計な物差しは介在しようがない。
  そしてまた彼はそういう彼自身の生き方に自信をもっている。当然というべきか、かなり楽観的である。後に彼はあやまって殺人を犯してしまい留置されることになるが、そのさいにもまさか死刑判決が下されるなどとは露ほども思わない。私が解釈するにその犯行は心神耗弱下のもとでの過剰防衛であり、本人もそう自覚していて、裁判所もそのように正確に判断してくれるものだと高をくくっているようだ。裁判所という社会組織やそこに反映されるであろう犯行にたいする世評がまったく視野に入らないのだ。楽観的というよりもこの場合は迂闊といったほうが適切かもしれない。さらに間抜けというべきか、ムルソーは裁判所や世間の指弾にたいしてあまりにも無防備だ。自分は内部を透明にしている、だからじっくりと見てくれれば真実はおのずから見えてくる、ムルソーはそんな思いだろうが、これが無残に裏切られる。
  ムルソーはまた生粋の無心論者である。裁判の過程で彼は一部の人からインテリ扱いされるが、学問をつうじてその思想をつくりあげたというよりも上に書いたような彼の生活や人との接し方から生まれ出てくる自然な信条というべきだろう。神父がときどき牢獄のムルソーを訪れてきて、神を前にして裸になりなさいとか、悔悛しなさいとか、神の顔を思い浮かべなさいとか、神父にしてみれば誠実かもしれないが、ありふれたことを彼に説き伏せようとする。だがムルソーは従わない。裁判の判決は受け入れざるをえないが、それ以上に人の命令におとなしくしたがう必然性がない。彼は死刑が確定する以前も以後も、何もすることがない牢獄でさまざまな想像やら空想やらにひたってきたが、神に関することがらはまったく思い浮かべなかった。彼にとってはこれまたごく自然であたりまえで、それがムルソーという人間なのだ。彼がもし信仰者であったならば、神父の忠告は受け入れたのだろうが、そうではない。なんでいまさらにわかに信仰者にならなければならないのか、死刑が決まったからといって内面までなぜ捻じ曲げなければならないのか。神父は人であり、神父という仕事をする人であるならば、それは人が人の奴隷になることだ。神に許されるとはどういうことか、ムルソーにはわからない。あるいはそういう幻想にひたることで少しは死の恐怖から逃れられるかもしれない、藁にもすがる思いで多くの死刑囚が神父の勧めに応じるのだろう。ムルソーも当然死はこわいのだ。だが決然と彼は神父を否定する。言葉というよりもその人格そのものを全否定するかのような激しさだ。個人の内面の自由を、自分というよりも個人の抵抗をつうじての全人類の内面の、さらには外面の自由を守りとおそうとの思いが、ムルソーからさらに作者カミュから伝わってくる、私にはそう感じられた。神父は傲慢なのだ。人間は、とくに犯罪を犯した人間はこうあらねばならないという型にはまった人間像を抱くが、ムルソーは渾身の力をふりしぼって反抗する、死の恐怖をごまかしたりやわらげたりするよりも「自由」を訴求する。
  正直で率直で、彼にしてみれば外面と内面のちがいなどはない。無防備なほどに自分を恃むことが多いから、人が自分をどう評価するのか気にしない。また親しくなった人とはそのつきあいは長つづきする。彼の友人はすべて彼を好感を持って見る。その反面、ソリの合わない奴とはつきあわない。もしその人が、物理的に近い存在ならばいっさい妥協することなく徹底的に反抗する。私がえたムルソーの人間像である。個人としていかに生きるべきか、そこには多くのヒントがある。
  ムルソーはまた一見冷たい男に見える。悲しいにしろ嬉しいにしろ、その感情表現を避けるからだ。禁欲的といえるのか、自分にとっての居心地のいい自分、自分らしい自分というものを知っていて、できるだけ感情的に揺れの少ない状態であろうとする。感情を放出することによって気分を変えたり、解放感をえたりすることをまるで知らないかのようだが、そういうことを彼は好まない。少なくとも人にわかるように態度に出すことを好まない。これはムルソーの第一人称で語られるこの小説の一見そっけない語り口とも一致している。だが彼に喜びや悲しみが無いはずもない。アルジェの午前の心地よい太陽のもと、再会したマリーというガールフレンドと海でたわむれる様からは、その喜びが素直すぎるくらいに伝わってくる。また後に裁判において彼の情状面を審議する場で、彼の母の葬儀の際の態度が問題視される。つまり、涙を流さなかったこと、とじられた棺桶を開けての母との別れを勧められたにもかかわらず拒んだことなどが、その「冷酷」さを証拠立てるものとして検事から糾弾される。ここはマリーとの再会の場面にくらべると少しひっかかる個所であり、読み解くのが難しいが、私たちは肉親の死に際して泣いたり最後の対面をしたりする光景にあまりにも慣れすぎてしまっている。ムルソーは奇異な人だとの印象をぬぐえないが、だからといって「冷酷」だと断定するのはあまりに牽強付会ではないか。小説の初めの部分であり、カミュは人物造詣にあたって謎かけからはじめたのではないか。ムルソーは養老院のあるとおい場所までバスでゆられてたどりつき通夜をすごしたから疲労している。だが悲しみが無いのではなく逆だろう。むしろ悲しみという謎と静かに対峙しているように思える。それに、母と養老院で仲のよかった老人が涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにしたことを印象深い光景として語っていて、みずからの悲しみを代置していると私は読んだ。
  ムルソーの友情の厚さはわかりやすい。先に書いたレエモンという自称「倉庫係」(検事には「女衒」と呼ばれる)の男のために彼は一肌脱ぐ。レエモンが好きで、その窮乏を同情して貢いでいた女がたんに金銭目的で彼とつきあっているのがわかって、レエモンは懲らしめたいと願う。セックスの最中に唾を吐いて追い出したらさぞ痛快だろう。そのために女を「おびきよせる」手紙を書くことをムルソーに頼み、ムルソーも承諾し、後日レエモンのこの計画は見事に成功することになる。レエモンは評判の悪い男でムルソーの耳にもそれは入っているのかもしれないが、目の前の人の人となりに共感できればムルソーは自分のその判断を優先する。さりげない筆致で語られるが、世評を気にする人や臆病者にはまねができないつきあいだろう。さらにその後も、ムルソーのレエモンにたいする友情はもっと確固としたものになる。だがこのことが事件の「引き金」にもなる。
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