大洋ボート

無言歌

  教えられた。映画の主人公とその周辺の人たちが遠い場所から訪ねてきた女性に教えられるのとまったく同じように教えられた。
  主人公をはじめとする人々は中国西域の砂漠地帯に「労働改造」のために移住させられている。時代は1960年で、いわゆる「百家争鳴」の言論の自由が謳歌された時代が終わって、毛沢東が大々的に反右派闘争をはじめた頃だ。そのあおりを食って、反国家的な言動を公にした人々が糾弾され「右派」のレッテルを貼られて連れてこられたのだ。土地開墾の名目で劣悪な環境のもと日々苛酷な労働を強いられる。つまり私たちが日々おくる日常とはずいぶんとかけはなれた環境なのだが、それでもそのちがいを超えて、主人公らの感情の流れとその変化に寄り添うことができた。逆に言うと、私たちの一見平穏な環境においても十分に起こりうる感情の変化であり、沸騰なのだ。訪ねてくる女性も同じく、私たちの隣人であるのかもしれない。映画にふれて「教えられる」という感慨を受けとることはそう多くないが、今回はそれにあたる。いい映画を観た。
  四方は見渡すかぎりの地平線。これだけで、もう逃げ出せないなという絶望にうちのめされる。別に鉄格子で囲まれているのでもなく、住居は砂漠を浅く掘った壕で、10人ほどのベッドが並べられただけで余分な空間のない狭さだ。光を取り入れるための穴が無造作につくられている。烈風が吹きすさぶ寒冷の地で、収容者は一様に厚着で、毛皮のチョッキを着ける者もいる。開墾といっても砂漠の表土を農機具で掘り返すだけで、種をまく様子もない。こんなところではたして作物が育つかどうか疑問なのだが、収容者はただ命じられたとおりの行動に従うしかない。食事は一回につき穀物がわずかしかない薄い粥一杯で、生き殺しに等しい。そのために収容者はとくに高齢の人たちがつぎつぎに死んでいく。
  カメラはどっしりと構えて動かない。砂漠の広大さやらその地の光やら住居のなかの闇やらをあるがままに映し出す。ときおりは人間の移動に添うように手持ちのカメラが砂漠と住居の穴を往来する。そしてたえず聴こえる風の音。その淡々とした繰り返しだ。科白は少ない。昔話であったり、今日はだれそれが死んだというようなことだ。たぶん同じ環境に投げ込まれたならば私たちの誰もが口にするであろう言葉なのだ。特別な人はいない、なりようがない。だれもが同じ人間であることを否応なしに知らされるのだ。俺も近いうちに死んでいくんだなあ、つまらないなあ、と彼らが抱くであろう心境を想像してしまう。感情を高ぶらせても得はない、その境遇に不満や怒りをつのらせても何も実現しない。それならば何も目新しいことを考えることもない。苛酷さに耐え、慣れること、時間が過ぎ去るにまかせることくらいしか心身の方法は残らないのではないか。私たちはこんな劣悪な環境に投げ込まれたことはないのだが、平穏であっても、諦めや、挑戦的精神に蓋をすることが大いにある自分につきあたって、そこから映画の登場人物との共通点を見出すのだ。「長いものには巻かれろ」という言葉の指し示すものだ。だが映画はこれで終わらない。ここまでが前半で、重要だが前提に過ぎない。
  収容されている夫に会うために、女性が上海からはるばると訪ねてくる。ここから映画が力強く動きだす。残念なことに、その男は数日前に死亡してすでに土葬されたあとだ。問われた主人公はためらいののちにそれを告げると当然のように女性は号泣する。文字通りの号泣で女性は泣きやむことを知らない。それだけではない。墓の場所を教えてくれというのだ。主人公はもっとためらう。死者の骸が他の収容者によって食い荒らされたことを知っていて(飢えのために鼠や死者の肉が食われる)見せることが不憫で、教えようとはしない。墓は何百とあってしかも名前も記されないままに、土を浅く掘って盛りあげただけで同じ形をしていて見分けられない。主人公はそれでも墓の場所を特定できるのかもしれない気配だが、その事実を口実にして女性を引き下がらせようとする。だが真っ向から反抗して女性は引き下がらない。「墓地」へ出て行って、涙しながら手で引っかくようにして墓のひとつひとつを掘り返すのだ。ここは涙せざるをえない。そして教えられるのだ、私たちは。
  この女性にとっての夫の死はみずからの肉体を切り刻まれるのとまったく同じだ。堪えようのない痛みだ。そして何が何でも夫の亡骸と対面したいという望みだけが残ったのであり、それが実現できなければとうてい治まらない怒りであり悲しみなのだ。泣き叫ぶ、そして目的に向かっていちずに動く。ありったけの感情を爆発させて、ふらふらになりながら動く。眼に見えるこれらのことによって収容所の男たちも私たちも悲しみや怒りや、人間の尊厳の何たるかを痛切に知らされる。そして同時に、自分たちがあまりにも妥協的だったことを、人間の尊厳というものから眼を逸らしていたことを思い知らされる。(前半部で、ある男が裁判による離婚成立を知らせる手紙を元の妻から受け取って読む場面があったが、諦めが染みこんでいたのか、感情の変化はなかった)さらに知らされるだけではない。女性の行動を援助することは勿論、主人公ともう一人の高齢の男は、にわかに自分たち自身の尊厳と希望に覚醒し、絶望的な脱走を試みるのだ。私たちにももたらしてくれる覚醒であることもいうまでもない。
  この女性を演じるシュー・ツェンツーという女優がすごい。演技が巧いとか下手とかいう次元ではなく、そんなことを忘れさせて、ああこんな人間(女性)がこの世の中にいるんだなあという感慨に呑みこまれる。私もこんな人にかつて出会ったのかもしれないが、どうやら忘れてしまっている。それだから映画でのこの出会いが奇跡のように思えた。ワン・ビン監督の力の結晶でもある。
      ★★★★★
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