大洋ボート

白痴(2)

 ムイシュキンはスイス在住のおり、貧しいうえ病気がちの十代後半の少女を見事に救った経験がある。マリーという少女は結局は死んでしまうが、これは彼の自慢だ。すがすがしい体験だ。彼女の母は自宅を利用してちっぽけな売店を営むが、それだけでは足りず、少女は近所の家の手伝いなど日雇い労働に出される身だった。すでにその時には肺病を患っていたが、外国人の商人にたぶらかされて誘拐された。一週間後に彼女はぼろぼろの身なりで帰ってくるが、それ以後、大人や子供、そして彼女の母までも加わった形で、村中の人々にいじめられる。その商人に肉体をもてあそばれたことを全員がなじるのだ。教会の牧師でさえ加担する。今日では強制的性行為の被害者が、加害者そっちのけで非難されることは奇異に受け取られるかもしれないが、ついこのあいだまではそういう傾向が公の場でも大いにあったし、今でも隠微な場ではそういう会話は流れるものだ。──そのなかでたったひとり同情を寄せるのがムイシュキンで、子供と遊ぶのが好きな彼は、子供たちをたしなめる。やがて子供たちも彼に同調するようになり、食料やら身の回りのものやらすこしずつではあるが、マリーに持っていく。少女もムイシュキン同様、いつのまにか村の子供たちの人気者になるのだが、病気の進行はやまない。たのまれもしないのに牛飼いの仕事を買って出る……。記憶にとどめておくべきは、彼はわざわざ、女性として好きだから大事にするわけではないと、少女にはっきり断っていることだ。そのうえで接吻をする。少女は美人ではない、と彼はわざわざ断って語る。少女はそんなムイシュキンや子供たちに取り巻かれ幸福を真に実感しながら、臨終する。

 この体験はムイシュキンに「憐れみの心」(恋心ではない)をもって人に接すれば、また具体的に行動すれば、必ずその人は幸福になり、周囲の人も同じ気分を分かち合うことができる、という自信を植え付ける。たとえ貧乏であっても死んでしまっても、だ。善行をほどこせば、ほどこされた相手はかならず善意や愛情を触発され、ひとかたならない満足をうる、ということだ。逆に言えば、ムイシュキンにとって悪人と呼ぶべき人はこの世には存在しない、彼の善意に反逆する人はいない。その存在の可能性をさえ信じたくない。

 ところで、ムイシュキンには生活の維持(仕事)に費やすべき時間が、療養という理由で免除されている。地域のしがらみとも隔たった立場に身を置ける。また、ロシアに帰還したあと明らかになるが、亡くなった近親者からの十分な額の遺産がもたらされることが判明する。つまり二四時間すべてを使って、善意や「憐れみの心」について心を砕き、行動につくことができる。そういう条件が保障されている。これは一見、仕事や家族にとりまかれて大部分の時間をそこで過ごし、そこでしかない、相も変わらない同じような不快や失敗にまみれる私達の日常に比べれば羨ましい気も湧いてくる。いつてんかん病が再発するかもしれないという不安をのぞいては。だがこれは、私たちが自身の日常を気に入っているのかいないのか、適度な妥協が成立しているのか、それともいやでいやでたまらないのか、ということに対応して、ムイシュキンに対する私たちの羨望の度合いもちがってくるのだろう。また闇雲にムイシュキン的ロマンをもとめる切迫した感情が、おそらくは若さが私たちにどれだけあるのか、という問題でもある。そうだ、私たちが日常をくり返すことをゆるされた存在ならば、彼はそうではない。彼の「憐れみの心」はたんに自己満足的に終わるのではない。殉教と言うにふさわしいほどに彼はそこに徹底する。運命であるかのように後退することをまるで知らないのだ。帰る場所がない。強いてあるとすれば自然の風景ということになる。

 私たちはまた、生活の維持のために醜い姿をさらすこともある。人の情けにぶら下がる反面、平気で薄情にもなれる。人の面倒をそれほどはみられない。何よりも金に執着する面は否定できない。私たちが自身の生活上の存在を、決して座り心地のよいものではないことを、恥がつきまとうことを知っている。「憐れみの心」にあこがれながらもそれに忠実なばかりではいられないのだ。この小説で例をあげればガヴリーラやレーベジェフという人物が、そういう醜さをさらに拡大させた見本だ。そうすると、ムイシュキンは、私たちやこれらの人物の生活像をちょうど反転させてドストエフスキーがつくりあげた、つまり両者がセットとしても見なすことのできる人物像ということもできるようだ。彼が上澄み液ならば、私たちや彼等はその下の液であり澱なのだ。そしてムイシュキンは生活をくり返すようにはくり返さない。私たちの不快や失敗は、喉元過ぎれば熱さを忘れる式の処方でほとんどのりこえられる。だが、彼は不快と失敗には脆い。手なづけてくり返すためのマニュアルがない。「憐れみの心」を実現するために、まるで坂道を転げ落ちていく。彼が信奉する世界観と現実とはちがう。その裂け目と彼がこうむる打撃とを私たちは見ることになる。

 ムイシュキンは幼い。それは私たちが若さのなかに忘れてきた幼さではないか。淡い夢にひたった時間を思い起こさせるのだが、彼は一個の人としてそれを引き受けるので、核心部分に淡さはあるにせよ、それを決して現実の困難に溶解はさせない。彼の発する「憐れみの心」についていきながら、私たちは知らず知らずに彼に対してこそ一番「憐れみ」をふりむけてしまう。私達は果たして彼と同質の「憐れみの心」をどれくらい胚胎しているのか、どたんばになってそれを果たして実行することができるのか、という自問は当然ながら私たち読者にもつきつけられるのだが、それもおろそかにしてしまうくらいだ。

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