大洋ボート

白痴(1)

白痴 (上巻) 白痴 (上巻)
木村 浩、ドストエフスキー 他 (1970/12)
新潮社

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 ムイシュキン公爵は無類の善意の人である。その善意は彼の語る美にもとづいている。それは彼が持病のてんかんのために四年間療養生活を送ったスイスの自然に満ちた村のうつくしい風景である。また、そこで接しやがて彼も慕われることになる子供たちの純朴さである。そういううつくしさや純朴さが、彼を洗い、彼の善意を混じり気のないものにする。最初に彼の善意があって、その意識せざる投影を風景や子供たちに彼は見たのかもしれない。また善意を力強く且つうつくしく保障する根源をそれらに見いだすべく、引っぱってきたかったのかもしれない。だが読者は、ムイシュキンがまるでそういううつくしさから奇跡のように生まれ出て来た存在であるかのように最初は読んでみたくなる。作者ドストエフスキーもまた、はじまりの部分においては、そういう読ませ方を意図するようだ。自然=美=善意、という等式に私達は吸い寄せられる。

 ムイシュキンの善意とは絶望や困窮に陥った人々に対してとりわけ向けられる。だまって見過ごせないという「憐れみの心」だ。たとえば彼の語る死刑執行直前の死刑囚の話。頭巾をかむせられて断頭台に上がろうとする死刑囚に、神父が十字架を接吻させる。わけがわからなくなって何回も何回も接吻する死刑囚。ちょっとした挿話だが、震えが伝わってくる気がする。そしてムイシュキンの聞き語りによれば、死の直前に近づけば近づくほど「生」が凝縮して光芒を強烈に放って輝くというのだ。絶望のどんづまりにあってこそ、生きたいと切に思う。生きる歓喜を魂は彼方に見据えて想像する。ムイシュキンはまるでそういう死刑囚を羨むように生き生きと語って私達を魅了する。死刑囚に勿論同情を寄せるのだろうし、明瞭に書かれてはいないが、おそらくは死刑制度には反対だろう。また彼等の犯罪内容にはふれることはないし、彼等への憎しみもまったく語りのなかには存在しない。だが、そんなことよりも重要なのは、死刑囚の生への渇望がムイシュキンの自然崇拝に結びつけられていることだろう。目に見える自然もそうだが、死刑囚のエピソードも援用して、力強い、新しい生を彼は見いだしたがっている。ムイシュキンの死刑囚への「憐れみの心」は硬直的ではなく、こういう具合に羨望や愛しさとも混じり合う。またドストエフスキーはかつて社会主義のグループに所属したことがあり、その際、事件に連座させられて死刑判決を下されたものの、執行直前になって特赦を受けたという体験がある。識者によればその体験が死刑囚の挿話としてほとんどそのまま語られているという。

 死刑囚は死刑執行の三分前に思考と想像力を凝縮させ、全開させる。もはや三分後には自分は死ぬ。だが死、ということでは必ずしもなく、自分はどこかへ行く、何かに生まれ変わる、というように幻想は野放図に拡大して、死の認識さえ隠れるくらいにまで彼を支配する。それを構図として是が否とも明瞭化したい、「説明」したいという欲望が極大化する。だがそれでも、それはやはり「死」の世界そのもの以外にはありえない、死を否定しきれないという「嫌悪の情」も同時に高じてくる。

いま自分はこのように存在し生きているのに、三分後にはもう何かあるものになる、つまり、誰かにか、何かにか、なるのだ。これはそもそもなぜだろう、この問題をできるだけ早く、はっきりと自分に説明したかったのです。誰かになるとすれば誰になるのか、そしてそれはどこなのであろう? これだけのことをすっかり、この二分間に解決しようとしたのです! そこからほど遠からぬところに教会があって、その金色の屋根の頂が明るい日光にきらきらと輝いていたそうです。男はおそろしいほど執拗にこの屋根と、屋根に反射して輝く日光をながめながら、その光線から眼を離すことができなかったと言っていました。この光線こそ自分の新しい自然であり、あと三分たったら、何らかの方法でこの光線と融合してしまうのだ、という気がしたそうです……いまにも訪れるであろうこの新しい未知の世界と、それに対する嫌悪の情は、まったく空恐ろしいものでした。(p133)

 そして男は、もし死なないとしたら自分の生は無限の輝きを放つだろうし、一分たりとも無駄にはしないだろう、そこにはめくるめき歓喜と創造の生が横たわっているという確信をえる、しかしその確信は持ちきれないほどの憤懣と同時に訪れる。勿論、生が不可能だからで「もう、一刻も早く銃殺してもらいたい気持ち」になると言う……。これはドストエフスキーの体験に直接基づいているが、読者にはどうしても実感が追いついていかない部分で仕方のないところだ。また作者自身も、実感を取りもどすにはそれ相当のエネルギーが必要であっただろう。私が指摘したいのは、このような死刑囚の話がムイシュキンの自然崇拝と結びつけられている、共通項として語られているということだ。それも眼に見える固有の風景そのままをつぶさに語って賞賛するのではない。まさに風景がムイシュキンにもたらず謎、彼にあたかも啓示をあたえるかのように、彼に執着を起こさせる風景の彼方に見える風景だ。無論、ムイシュキンは死刑囚ではないので、嫌悪や憤懣をともなってそれを眺めるのではない。問題解決の糸口が、風景の彼方に横たわっているかのように見えるという点で、死刑囚と彼は共通しているので、そんな彼だから、死刑囚に真に同情的なのだ。

はるか頂上の岩の上には中世紀の古いお城の廃墟があって、眼下には私の住んでいる村が、かすかにながめられます。太陽はさんさんと明るく輝いて、空は青く、しいんとこわいような静けさなんです。そんなときですね、私がどこかへ行きたいという気持ちになったのは。もしこれをまっすぐにいつまでもいつまでも歩いていって、あの地平線と空が接している向こうがわまで行けたら、そこにはありとあらゆる謎がすっかり解けてしまって、ここで私たちが生活しているのよりも千倍も力強い、わきたっているような、新しい生活を発見することができるのだ、と思われてなりませんでした。それから私はしょっちゅうナポリのような大きな町を空想していました。そこには宮殿が立ちならんでいて、ざわめきとどよめきと生活があるのです……(p129)

 おそらくはロシアよりも過ごしやすく静寂もあるのだろうスイスの田舎の自然の恵みを受けて、ムイシュキンは身体の状態が回復していくのを実感する。ときおりは住居からそれほどとおくない場所へ散歩に出かける。山に登ったときの描写だが、引用された部分の直前の部分をふくめても、他の作家ならもっと自然の風景を細密に書き込むのかもしれない、そんな思いがわいてくる。手つかずの自然がのこされているという点だけがあっさりと記されていて、私たちが実感できる「うつくしさ」とさして変わらない、むしろ何の変哲もない自然ということでいいのだろう。そして何度も書くが、自然そのものの礼賛ではなく「新しい生活」を夢見心地ながらにその奥に見つけたがっているムイシュキンをここに見るのだ。引用した部分だけでは明らかではないが、それはムイシュキン個人のみの「新しさ」やましてや健康にとどまるものではない。人の生のありようがもし間違っていて、それを人の手で正したいならば、その根拠たりうるものを、風景の彼方に彼は見いだしたがっている。それを最初に発見すべきなのは無論彼であらねばならぬ、という自覚の元に語るのだ。そうしたうえで彼が降りたつべき町が「ナポリ」であるが、ナポリでなければならないことはなく、これから行くであろうロシア、また単に未来だと解釈してようのだろう。

 そのときの彼は二十代前半、もっぱら療養に専念していて、これから人生がはじまろうとする頃だ。広大な沃野が眼の前に展開する気にもなれるのだろう。また死刑囚の語る「貴重な一分間」をも彼は受け継ごうとする気負いもあるのだろう。

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