大洋ボート

カフカ「田舎医者」

変身ほか (カフカ小説全集)変身ほか (カフカ小説全集)
(2001/06)
カフカ

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  短編集『田舎医者』のなかでもっとも印象的な一編。体裁は短編であるが詩的雰囲気が濃密にたちこめる。吹雪や馬、女中、負傷した子供やその傷口、子供の家族やまわりの住人などが矢継ぎ早に登場するが、それらの連結の仕方が現実性がとぼしく夢のようである。こうしたからこうなったという、目的にもとづいた行為と結果の関係があまり見えてこない。むしろ映像や出来事が向こう側でつぎつぎに生起して陶然とさせられながらも了解せざるをえない、なにもしないままに変転する事態の連鎖のなかにいつづけるしかない、こういう主人公の医者の心象風景が大部分として書かれている。そしてまた夢の中にいさせられるような書き方は、思うようにならない、自由にふるまえないということでもあり、人は重要時がふたつかさなった場合ひとつのことにしか身を置けない、あとの重要時にはまったく無力であるという本編の主題ともふかく関係づけられている。
  吹雪のなか、医者に往診の要請があったが、遠隔地であるために馬車が必要だが、馬はすでに死んでしまっていない。女中に馬を探しにやらせたが、誰も貸してくれない。だがそんなとき不思議なことに生きのいい馬が二頭なんと自宅の豚小屋から馬丁にともなわれて出現する。馬丁は見知らぬ人で、医者の目の前で露骨にも女中に襲いかかる仕草を見せる。女中の顔には馬丁の歯形がくっきりとついている。「手篭め」にさせてはならないと医者は制止しようとするが、馬丁はすでに馬車に乗り込んでいる医者を去らせるために馬を操って一気に走らせる。馬丁から逃れるために家に逃げ込む女中と体当たりをして鍵を壊して家に侵入する馬丁の映像が医者の視野の端にある。後ろ髪をひかれながら患者宅へと急ぐ医者。出だしの部分だが、豚小屋から馬と馬丁があらわれるのがまさしく非現実的で悪夢のようだ。
  往診先ではベッドに伏した少年がいるが、医者は女中ローザが心配でならず、心ここにあらずという状態だ。「先生、僕を死なせてください」と開口一番、突拍子もない懇願をする少年であるが、医者はろくろく少年を診察しようともせずに少年は健康で五体満足にちがいない、さあ早く帰ろうと自分に言い聞かす。夢のなかの自分勝手な了解と同じではないか。さらに夢幻的なことの連続がある。馬が「自分で窓を開けて」部屋を覗き込む。たぶんこのとき馬は医者の分身的地位にあり、医者の帰宅をせかすのだろう。少年や家族の心配のなかようやくのように医者は少年の脇腹の大きい傷にぶちあたる。

薔薇(ローザ)色の大きな傷だ。その色が微妙に変化して中心部が黒ずんでおり、まわりにいくほど明るい。いろんな形の血の塊がこびりついている。露天掘りの炭鉱といった具合だ。一見してそうである。仔細にみると、もっとひどい。思わずヒューと口笛の一つも鳴らしたくなるくらいのものだ。太さ、長さが小指ほどもあるうじ虫がむらがっている。

哀れな少年だ。どうしようもない。おまえの大きな傷を見つけた。脇腹に咲いた薔薇色の花がおまえのいのち取り。

「ぼくをたすけてくれますね」

  訳者池内紀によると薔薇(ローザ)色の傷口をカフカは「ローザ」と単刀直入に書いたそうで、女中ローザとぴったりかさなる。今しも「手篭め」にされているにちがいないローザにまつわる性的イメージが濃密に託されているという。この指摘がないとローザのルビの意味を見過ごしてしまいそうであるが、私にはローザとの繋がりが浮かばなくとも傷の描写から女性性器の陵辱されるイメージが浮かんできて嫌で、かえって無視したい気にも駆られるのであるが……。医者はここでは少年が重症であることを知っているが、ずいぶんと冷淡で投げやりではないか。治療行為のさなかにあってもはやくも救命を諦めてしまっているかのようで、これは当然ローザの運命への悲観とつながっているのだろう。治療行為の描写がほとんど省略されるのも面白い。つぎつぎと生起する夢幻的な出来事がいそがしいのだ。
  医者はどうやら傷のひどさから救命を諦めたらしいのだが、家族や村の住人は承知せずにせっつく。奇妙にことにその連中は医者を裸にしてその身体を少年の傷口にぴったりとくっつけさせる。小学生の合唱隊までいつのまにか勢ぞろいしてはやし立てる歌を歌うのだ。夢幻的だからなんでも登場するのだが無気味だ。民間信仰に関係するのかもしれないがわからない。まして医者はまったく無抵抗でされるがままだ。治療への不熱心さもあり、おおぜいの住人に取り囲まれての不承不承もありといったところか。そして少年は助かったのか、死に際の小康状態を保つに過ぎないのか、助かったとすれば治療によるのか、裸同士の身体をかさねるという変な行為によるのか、それら委細は記述上はまったくはっきりしない。やはり夢幻的世界だ。とにかくも医者はローザのことだけが気がかりであわてて帰宅していく。
  医者にとっては往診と治療は職業的義務であるが、そのさなかに親しい女中がレイプされるという事件が起こる。職業に忠実であることはおおいに褒められるべきことであり、周りの人もそう思いがちであるが、ここではもうひとつの「救命」が置き去りにされるという大きな陥穽が描かれる。職業というよりも生きるということが、何かそういうことを強いられる運命にある気がする。人は何もかもを引き受けられないし、たった二つのことでも時間的にかさなった場合は同時には現場に身を置けない。つらさがあり、悲しみと諦めを背負わされる。主題を汲み取ろうとするならばそんなところか。だが主題という以上に、吹雪や傷口の描写がもたらすイメージはひりひりする痛みの感覚をよりつよく読者に訴えかけてくる。何回も読んだが、あらためてその生々しさに接した気になった。

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    15:06 | Trackback : 0 | Comment : 2 | Top
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2016.11.16 Wed 22:07  |  seha #-
> 様々な案件が未解決なまま頭にハテナを浮かべていましたが、この記事を読んで、なんとなくすっきりしました。

>杏樹さん、アップ遅れすぎで申し訳ありません。こちらの承認が必要なことを忘れていました。これに懲りずに、思いついたことがあれば、コメントしてください。
Re: タイトルなし  [URL] [Edit]
2016.07.05 Tue 18:30  |  杏樹 #-
様々な案件が未解決なまま頭にハテナを浮かべていましたが、この記事を読んで、なんとなくすっきりしました。
  [URL] [Edit]







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