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カフカ「判決」「流刑地にて」

変身ほか (カフカ小説全集)変身ほか (カフカ小説全集)
(2001/06)
カフカ

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  「わしはいま、おまえに死を命じる、溺れ死ね!」「判決」の主人公ゲオルグは父にこう宣告された途端、橋から身を投じて文字どおり溺れ死ぬ、自殺してしまう。あまりにもあっけない、父の言葉にたいしてあまりにも従順すぎる死に方を選んでしまう。こんなことってほんとうにあるのかいな、と思って読者も面食らわされる。私は自殺を真剣に考えたことはないが、決意と実行との間にはためらいや迷いが介在するのではないか、実行までの間にどれほどかの時間が差しはさまれるのではないか、そんな感想を抱かざるをえないのだが、こんな死との異常なまでの近接はカフカの小説の底流に少なからずある要素だ。「審判」においては冤罪に巻き込まれてKはそれを晴らそうと動き回るが結局はかなわず執行者二人によって無残に処刑される。「変身」のグレゴールは気色悪い虫に変貌し、家族に毛嫌いされたすえ衰弱死する。いずれも自殺でなくても天寿をまっとうできずに早死にしてしまう運命にあるのだ。
  「判決」のゲオルグが自殺してしまうのは父の言葉によって父との信頼関係が壊されてしまったからだ。それを知るにいたるまではゲオルグは幸福感に酔い痴れていさえする。何年か前に母に先立たれて父は憔悴のどん底に突き落とされたが、かわって自分が家の商売を受け継ぎ以前にもまして繁盛させることができ、規模も拡大できた。また資産家の令嬢との婚約も整った。気がかりなのは一旗あげようとして何年か前にロシアにわたって商売をはじめた友人のことだ。手紙のやり取りをつづけているが、どうも友人の商売は左前らしい。故郷に戻ってきてはどうかと進言してみたいが、実際にもどってこられてもゲオルグと比較して彼は屈辱に苦しむのではないか。よけいなお節介と受け取られるのではないか。そんな気遣いがあってゲオルグは自分の成功のことを友人に知らせなかったのだが、婚約者とも相談してほんとうのことを告げるのが友情にかなうのではないかと思い直し、婚約の件を友人に知らせることにした。そしてそのことを話すついでに父の部屋に足を運ぶ。
  だが父の態度は話すうちに異常極まることが明らかになる。ゲオルグは父が朝食を食べ残したのを見て、父の不健康をおもんばかる。いつも店で顔を合わせ食事も同じ部屋で摂っているのだが、父の部屋のうすぐらさにあらためて気づいて自分の明るい部屋と交代することを提案する。そして休ませるために重い体をもちあげて椅子からベッドにまで運ぶ。だが父は息子への恨みが積もりに積もったかのように突然罵倒の言葉を吐き散らすのだ。伴侶に先立たれて滅入ってしまったのか、そういう自分を息子はちっともやさしく扱ってくれなかったとでも思うのか、婚約者もえて自分を尻目に幸福にひたろうとすることへの僻み根性か、わしはこんなに元気だと、ベッドに立ち上がって足を蹴り上げる仕草さえ見せびらかす。ゲオルグにとっては青天の霹靂で、とりわけロシアにいる友人と父がゲオルグに内緒で連絡を取りあっていたとの暴露はゲオルグに衝撃をもたらす。友人にとってはゲオルグの手紙はたとえ良かれと思って記したことも嘘のかたまりとしてしか受けとられかねない。友人との手紙上でのいきさつも商売に励んだこともゲオルグは良かれと思ってなしたことなのに、それをことごこく父に否定され罵倒された。その日そのときになってはじめてゲオルグは父の態度を一挙的に知らされるのである。そして間髪をおかずの自殺の決行となる。冒頭に記した父の言葉をもうすこし広げて引用するとこうなる。
  

「自分のほかにも世界があることを思い知ったか。これまでおまえは自分のことしか知らなかった!本来は無邪気な子供であったにせよ、しょせんは悪(わる)だったわけだ!——だからこそ知るがいい、わしはいま、おまえに死を命じる、溺れ死ね!」

  ゲオルグから見て、はたしてこれが父の正常な姿なのか、疑ってみても不思議ではないが、そんな間を惜しむように橋へ駆けていって飛び込んでしまうのだ。ドッキリカメラで嘘を言いふらされてお人よしにもそれを真に受けたかのような印象も残る。だが、人間関係における信頼の念を一方的に破壊されてしまったとゲオルグは本能として受け取るしかなかったようだ。そしてそういう残酷さのなかに滑稽さやユーモアと呼ぶべきものが色濃く残る。これは何か。
  カフカは創作上のモチーフとして死を抱え込んでいた。生前病弱だったこともあろうし、そうでなくとも社会的に蔓延する死の契機に着目しつづけた。だが死は突然やってくるもので私たちは自分の死を認識できないのだ。死んでから現状報告はできないから、せめて死の直前になってはじめてその切迫感に支配されて「死のリアリティ」を記すことができるのかもしれない。だからそれ以外の生の大部分においては私たちは死との距離を保っている。むしろこの距離に身をおくことによって私たちは十分に死を考察する余裕をえるのではないか。つまりは実際の死の「リアリティ」や実際上の死への欲望よりも作家は創作欲の噴出としての死にのめりこむのだが、やはりここには実際の死とはちがうという認識があるので、照れや空想癖をどうしても引きずってしまいユーモアとなって滲みだすのだ。カフカに自殺願望がなくても自殺を急ぐ青年を書きたいという創作欲との矛盾。やってしまいました、なにもわからないが書いてしまいましたという苦笑いであり、爆笑かもしれない。自殺は毀損した人間関係への唯一ではないがひとつの答えだろう。自殺しないことが大半の答えかもしれないが創作欲として自殺が選ばれるのだ。
  大部分の人は死にたくはないと思うだろうが、もしかしてたまらなく死にたいという人間がいるのかもしれず、それを創作として書く。「死にたくない」のは人間の根源的欲望でありまた倫理でもあるだろうが、創作という世界ではそれを無視して自由になって「死にたい人間」を書く。創作の欲望とは人生上において正当なのか、正常なのか、作者自身には即時的にはわからずとも創作として突破する。それが成功したとき私たちはきらめくような奇観に出会う。

  「流刑地にて」も「判決」よりも少し長いが、同じ構造を持つ作品だ。外国から招待状をもらった「旅行家」が処刑場に立ち会わされるという話で、処刑を執行する将校の自慢たらしくも残酷でオタクっぽい説明にながながとつきあわされる。将校は処刑を実行する機械を愛してやまない。囚人をベッドに縛りつけて上部の歯車箱で操作して《馬鍬》という針を12時間かけて身体に刻み込んでやがて死に至らしめるという仕組みの機械だ。その間《馬鍬》は囚人の裸体に罪状を書き込むという凝りようで、前司令官が開発した。前司令官はすでに死去したことが最初からあきらかになっているが、話し込むにつれて将校は前司令官の部下であるばかりか、一心同体なほどに前司令官に惚れこみ、また今も機械と死刑執行を愛してやまないことがわかる。高級将校をはじめ大勢の観衆をあつめての昔日の公開処刑を語るさまは、過ぎ去った栄華をなつかしむ様子だ。だが同時に将校は新司令官によって自分や当の処刑方式が冷淡にあつかわれつつあることも日々知らされている。そこでながながとした自慢話につれて将校自身と処刑方式を「助けて」くれるように、つまりは新司令官も将校も出席する会議で旅行家に擁護する意見を語ってくれることを依頼するのだが、旅行家はあっさりと断る。するとここでも急転直下、その答えを聴いた将校は囚人を放免しみずからが死刑台に上る、自殺である。
  「判決」が心やさしいゲオルグにそって書かれるのにたいして「流刑地にて」では傍観者としての旅行家が、いかにも時代遅れで残酷で悪趣味な将校の語りを冷静に聴きながすというわずかなちがいがあるのみだ。ここにも信頼を置いた人間関係の消滅がある。すでに前司令官との関係の絆が断ち切られた将校がわずかな回復の望みを外国から来た旅行家に託したのちに、それもついえて命を絶ってしまう。あれれ!と思わせる早さは「判決」と同じで、薄気味悪いギャグの味わいが付きまとうのも同じだ。

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