大洋ボート

道尾秀介『月と蟹』

月と蟹月と蟹
(2010/09/14)
道尾 秀介

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  テレビやゲームソフトに入りびたるのではない、たとえばソフトボールのように自発的に野外に集まってするスポーツの類いでもない。日用品や廃品を使って彼等はそこに独自のアイデアと創意工夫をくわえて組み合わせ、オリジナルの遊びの世界を形成する。そういう子供の遊びの一種閉鎖的な世界がこの作品ではよく描かれている。とくにここでは海や山など手付かずの自然が相手にされているので都会育ちの私のような読者にとっては新鮮である。またかつてそういう遊びに興じた人にとってもその手ごたえのようなものは懐かしさを喚起するのではないか。主人公の少年二人にとっても誇らしい気分だろう。
  だがこの物語は牧歌では終わらない。しだいに切羽詰ったものに遊びも変容してくる。彼らが学校や家庭の親など周囲の世界になじめないものを日々体感しているからで、その感覚がしだいに増していくなかで、遊びも子供なりの真剣さを帯びてくる。気分的な解放区であった遊びの世界はしだいに大人にたいする抜き差しならない反抗を決意させるよすがとなるのだ。また同時に同じ遊びを持続させ参加することで少年二人の友情も深まっていき、二人でともに「危ない橋を渡る」ことにもなっていく。遊びが宗教的密議にまでになるのだ。
  慎一は小学五年生で、鎌倉市に近い海辺の町に何年か前に引っ越してきた。父を癌で亡くし母と父方の祖父との三人暮らし。春也というクラスメイトも引越し組で同じ境遇によって彼等二人は自然に友人になっていく。つきあうにつれて春也が父の家庭内暴力に日頃から悩まされていることを知るようになる。また鳴海というクラスメイトの女子がいてやがて三人で一緒に遊ぶようになる。鳴海も慎一とおなじく片親であるが、母が死んだ原因が慎一の祖父の漁船に同乗したさいにフェリーと衝突して海に投げ出されたことにある。彼女は大学で魚類の研究にたずさわっていて、頼んでそのときはじめて慎一の祖父の漁船に乗せてもらった。祖父は命を取り留めたが片足の膝から下をもぎ取られた。こういう事情のもとにある慎一と鳴海の関係をクラス全員が知っている。クラスには慎一をいじめはしないまでもどことなくとおざけたい気分が蔓延している。なかには慎一の机に嫌がらせの手紙を隙を狙って差し入れる子供もいるが。こういうなかで別の物語が動きだす。たがいに独身の身分になった慎一の母の純江と鳴海の父が接近しはじめる。慎一も鳴海もやがて勘づくようになる。
  慎一はしだいに鳴海の父に憎しみを向けるようになるのだが、慎一と春也の遊びの世界を記しておかなければならない。彼らはペットボトルを利用して罠にし、浅瀬に沈ませてヤドカリなどの生き物を捕らえることに成功するが、これが彼らの独自の遊びのはじまりだ。子供の遊びはどうやら大人の目から隠れたところで盛んになるようで、ヤドカリをキーの穴に乗せて下から百円ライターで熱してヤドカリの身を剥き出しにしてしまうことを思いついてするが、これも廃屋の裏手の山に接した狭い空き地でする。ペットボトルの罠を「ブラックホール」空き地を「ガドガド」と呼ぶのも子供らしい秘密と親密さがこめられている。言葉をごく狭い範囲の隠語として発明するのも子供の好きな領分だ。
   さらに二人は慎一の祖父に連れて行ってもらった鎌倉は建長寺という寺の裏山にある十王岩という浅く彫刻がほどこされた岩に刺激される。その付近では鎌倉時代に罪人が処刑されたといい、強風が吹くと悲鳴に似た音が響きわたって不気味さをかきたてる。二人は「ガドガド」の山の急斜面をよじのぼって中腹に十王岩を思わせる岩を見つけ、そこを遊びの根拠地とする。雨水のたまった岩のすぐ近くのくぼみに水をかき出したあとにビニール袋にいれた海水と生け捕りにしたヤドカリを入れる。さらには岩全体をシュロの紐やビニールテープをつかって手製の注連縄とする。貝殻から追い出したヤドカリを粘土に固定してもういちどライターで燃やす。これが彼らの祈りの儀式だ。ものすごく手が込んでいて急斜面をのぼるだけでも息が切れるほどの疲労をもたらすが、少年二人はとりつかれたようにそういう遊びをつづける。もうそのころには慎一は母と鳴海の父が男女関係に発展していることを知っているのだが、現実の世界が苦しくて嫌なものになればなるほど、子供なりに自分でもわからないほどの執念を遊びの世界に投入してしまう。子供時代にここまでの体験は私にはないが、大人が隠密に行動することによってその分だけ子供をとおざける、大人はたとえば結婚が決まったならその段階で子供にも打ち明けるだろうがそれまでは言えない。大人の分別だろう。慎一はそれをなんとしてでも途中の段階で壊してしまいたいと思う。そうならばその思いを直に母に訴えればいいのではないかとも思えるが、やはり子供なのか。秘密にしつつもその思いを絶対のものにまで高めていく。そしてその思いを保障してくれるのが岩の神様、ヤドカリ=ヤドカミ様だ。そこを根城にして慎一は独りよがりな反逆の確信を得て地上に舞い戻る。
   神様を急ごしらえにでっちあげてみずからの破壊的な行動を許してもらう。子供の世界というよりももっと広く新興宗教的な世界だろうか。ただ子供らしいところは宗教にまつわる言葉があまりにも少ないことだ。また慎一の母にたいする思いがつよくて自然ならば、闖入者としての鳴海の父への憎しみはやはり自然で健全であるといえるだろう。
   もっともスリリングなのは慎一の鳴海にたいする思いだ。鳴海は父と慎一の母純江との結婚を受け入れる用意があるようだ。前半部になるが、鳴海も父と慎一の母との関係を疑っていて純江と慎一の家庭を知るためにたずねてきて食事をしていく。それがきっかけになって晴海も少年二人の遊びに参加するようになる。慎一は鳴海が好きで内心小躍りするが、それもつかの間、やがて鳴海は慎一よりも春也に好意を寄せるようになる。ここで慎一は子供なりの嫉妬地獄を体験する。慎一の主観に沿って書かれているので、晴海がどういう心の動きに見舞われたのか読者にはわからないが、もしかしたら晴海は慎一の父への憎しみを勘づいたのか、それともやはり父の結婚ににわかに反対しはじめたのかもしれない。すると意図的に慎一に冷たく当たることも子供であっても十分ありうる。それとまた不思議なのが、慎一のなかで晴海の父にたいする憎しみと晴海への好意がいささかの疑念もなく同居していることだ。将来を視野に入れれば必ず障害が発生する思いなのだが、なにかしらふわふわした気分に支配されている。遊びの別世界にひたりこむことによって夢想が自然に抱かれるのだろうか。もっとも子供といわず馬鹿な大人であってもこういう夢想にはしばらくは浸れるのだろうが。また好きな気持ちが曖昧であっても嫉妬だけは強烈にはたらくところは子供でも大人でも同じだろう。ただ慎一は小学五年という設定だから嫉妬がいびつな肉欲に発展することはない。
   子供の世界を描くことはむつかしい。いたるところで大人の言葉に置き換えなくてはならず、下手をすれば小学5年ではなくもっと年長の人に知らずになりかわってしまうこともあって、この小説にもそれを感じずにはいられなかった。子供の夢想にはそれほど言葉は詰まっていはいないのではないか。また物語にエンジンがかかるのが少し遅い気もした。だが私もちょっとくらいは齧ったことのある子供の世界の暗闇を思い出させてくれて、好感が持てた。
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2012.08.17 Fri 18:09  |  藍色 #-
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