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カフカ「変身」

変身ほか (カフカ小説全集)変身ほか (カフカ小説全集)
(2001/06)
カフカ

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  人や家族からたとえ短いあいだでもなんらかの理由で疎まれたことが誰にでもあるだろう。場合によってはそれが社会的な非難にまでひろげられることもある。そういう体験を重要なこととして、もしかすると自分一人にのみかかわることではなく、人間の根本的なありかたを解く鍵がそこにひそんでいるとみなすことも自由だ。するとその体験を再構成してみたい、想像力にもとづいて拡張してみたいという欲求に駆られる。彼にとっては周囲との和解よりも疎まれつづける非和解のほうがより真実らしく見える。カフカはそういう動機を中心に据えた作家だ。さらに彼は徹底してこの非和解を運命づけられた逃れようのない世界として、やがては死に直結するしかない世界として描く。何故そういう世界に突き落とされたのかとりあえずはそして最後まで当人にはわからない。世界は不可解そのものだ。そこから這い上がろうとする懸命の努力が文学的迫真性をもつがついには這い上がれないのだ。そしてそういう彼は被害者といえるが、この『変身』の場合は虫に変貌してしまったグレーゴル・ザムザのみならず、家族もまた被害者だ。薄気味悪い彼の面倒をみなければならなくなる、さらにグレーゴルのセールスマンとしての収入が途絶えてしまった結果父母と妹の三人は働かなければならなくなるので、彼の「変身」が家族全員を巻きこむ結果になる。その点、主人公ヨーゼフ・K以外の周辺の人物がかわりなく日常をおくることが可能な『審判』とはすこしちがう。
  グレーゴルは早朝目覚めたときにみずからが虫になってしまったことに気づく。背中はやや固い甲羅状で腹は蛇腹になっていてその下の端にシーツがひっかかっている。足は細くて無数にのびているといった具合だ。色は褐色で、大きさはあとで出てくるがドアのノブを立って口でくわえて回すことができるので人よりもかなり低い。あまりくわしくは書かれていないが、イメージするとゴキブリにムカデの足を合体させたような1メートルほどの怪物になろうか。だがそういう身体変化にかかわらずグレーゴルの意識は人間のままでまったく変化がない。よこたわっている場所が自分の部屋であり、仕事の時間に遅刻してしまったことも痛切に意識する。声も獣じみたものに変化するが、人間の意識でその変化を理解できる。これは悪い夢でもうすこし眠れば元通りの人の姿に帰れるのではないかと自分を慰めたりもするのだが、結局はそうはならない。
  グレーゴルは知る。部屋に閉じこめられたまま彼は不自由な身体で行動することで自分の身体変化や家族の自分にたいする見方や環境の変化を知る。発声ははやくも不可能になり会話もできない。天井に張りつくことができることを発見するが、さびしい慰めにすぎない。となりの居間に聞き耳を立てると家族は狼狽し落胆している。グレーゴルをどうあつかおうか、途方に暮れるようだ。だが当面はグレーゴルの面倒をみるしかないようだ。妹が健気にもグレーゴルの世話役を買って残飯混じりの食事を運んできたり、部屋の掃除をしたりする。グレーゴルにとっては妹だけが家族とひいては人間界とのつながりを証し立てるかぼそい存在だ。また希望だ。だが食欲は落ちていく。妹が運んでくれる残飯混じりの食事にもしだいに口をつけなくなっていく。以前は好きだったミルクが喉をとおらない。グレーゴルは人にもどれないどころか、しだいに衰弱をかさね、家族にも疎まれる存在でしかないことを、そして自分では何も変えられないことを痛切に知らざるをえない。知るとはこの場合、知識を得たり思考して考えをまとめることではなく、身体の変化や衰弱や家族の落ち込みを直接に気づかされることであり、擦り傷のような痛みを同時にともなうものだ。この痛みと「知る」ことの連続的な変化の肉付けがこの小説のふとい流れになっている。つまりグレーゴルも人間のままなのだから思考し認識を深めることが不可能ではないのだ。自分が迷惑このうえない存在なら、そういうことが身体能力的にできるかどうかは別にして自殺すべきではないかという決意に行き着いてもまったく不自然ではないが、直接は書かれず行間に託されている。「痛み」に耐えつづけるかのようなグレーゴルを読者は焼きつかされるのだ。
  視力も衰えさせながら窓に椅子をひきよせてグレーゴルは外の景色を眺めやる。絶望のなかの小休止ともいうべきか、ぼんやりできる時間だ。するとそれに気づいた妹は掃除のあとに椅子を元通りの窓辺に寄せて部屋をあとにする。また妹や母が部屋にきたときに醜い姿をみせまいとしてグレーゴルが身体をシーツですっぽりくるまる場面も微笑ましい。ついこないだまで兄であり長男であったという記憶が三人に共有されていて、よすがになっている。わずかではあっても家族としての交情が存在する。家族が我慢することが前提となるそういう細いつながりがいつまで保たれるのかはわからないが、グレーゴルとしては小さな交情の実現のたびに一安心するのだろう。そしてこれまたグレーゴルにとっては「知る」ことの大事な局面だ。グレゴールにとっては自分と周囲のごく狭い範囲での出来事がそのまま「世界」だ。その範囲での事象が彼を一喜一憂させるすべてだ。
  大破綻は劇的におとずれる。外に働きに出て久しい妹がバイオリンの練習をはじめたからだ。いつまでも気味悪い虫になった兄の面倒をみることに飽きたのか、自立の意志をもちはじめたのだ。グレーゴルが働き盛りだった頃から妹はバイオリンの演奏が好きでよく弾いていた。グレーゴルもそれを聴くことが好きで、たっぷり稼いで妹を音楽学校に通わせようと本気で考えていた。その望みが働くことの張り合いにもなっていた。それが今聴えてくる。おりからの経済的貧窮のためにザムザ家では三人の間借り人を受け入れたところだった。グレーゴルの隣室の居間を貸して家族三人は台所で過ごすという配置に変わり、妹は最初台所で演奏するが間借り人の希望によって居間に移動してあらためて演奏する。父母も同席する。だがまもなく間借り人たちは演奏に飽きてきた様子で煙草を吹かす。この一部始終をグレーゴルは知ることになる。音に耳を澄ますどころか、「気配り」をなげうって自分から愚かにも居間に這い出していくのだ。グレーゴルは最後まで人間だ。眠っていた正真正銘の欲望が妹のバイオリンの音色で目覚めさせられて湧出する。その音色のうつくしさはあらたで貪欲な食欲にもたとえられ、グレーゴルをふるいたたせ我を忘れさせる。バイオリンの音色の理解者は自分一人しかいない、他人に聴かせてもわかってもらえない、だから妹を誘って自分の部屋に来てもらって思う存分弾いてもらう、グレーゴルも賛美を惜しまないつもりだ。この欲求は妹や家族にとってはきちがいじみているが、グレーゴルにとっては「気配り」を投げすてたまごうかたなき欲望であり、欲望との一致の行動だ。それが絶対的に実現不可能なことすら忘れてしまえるほどの衝動だ。だから妹や間借り人が虫=化け物としての彼を間近でみたときどんな非難と軽蔑が待ち受けるのか考えてもみない。
  ある読者は自分の過去の特定の事象を思い浮かべて、あのときこうしておけばよかった、こうすればどうなったのだろうかと、悔いと物足りなさにからめとられながら感傷や空想に耽ることがあるのかもしれない。カフカの出発点もそういうたぐいだったのかもしれないが、そこからはるかに離脱しての欲望の確かさを掘りさげてつきあたったうえでのグレーゴルのこのときの行動であり、あまりの激しさのために絶望に跳ね返されることもグレーゴルを忘れさせる。そしてそのとおり同時的に絶望にぶちあたる。虫のグレーゴルが床を這うのをかなり遅れて発見した間借り人は怒り、軽蔑し馬鹿にした笑いがとまらない。父は虫を彼等の目からできれば隠したく思って彼等を寝室にせきたてる。そして妹だ。寝室のベッド・メイキングをしたあと居間にもどってきて言う。
 

「もうこのままではダメ。お父さんやお母さんにはわからなくても、わたしにはわかる。このへんな生き物を兄さんなんて呼ばない。だから言うのだけれど、もう縁切りにしなくちゃあ。人間として出来ることはしてきた、面倒をみて、我慢したわ。誰にも、これっぽっちも非難されるいわれはないわ」(p147)

  さらに妹はこのまま放置すれば、虫は間借り人も家族も追い出してこの家を自分一人のものにしてしまうだろう、家族の生活を不可能にしてしまうだろうとも追い打ちをかけて言う。兄はかつて家族のために精一杯働いてくれて助けてくれた、それには感謝するし、兄のいい思い出もいっぱいある、しかしこの虫は兄ではない、つまり兄は虫のなかで死んでしまった、そして虫は兄を食べてどんどん成長する、とでも言いかえることも可能だろう。耐えに耐えてきたものが心をこめたバイオリンの演奏を台無しにされて一気に噴出し憤りとして爆発したのだ。そういう思いをそれまでも抱きながらも妹は兄=虫として虫を遇してきたのだが、もう思考回路をねじ切るように虫を兄とは「別の生き物」と断定する。外見は虫でも精神は兄であり人間であることを妹はついに最後の段階では認めなかった。認めつづけるのは読者とグレーゴル自身のみだ。
  この見た目のたいへんなドタバタ劇、妹や家族の憤りはよくわかるし、間借り人に代表される第三者の虫にたいする薄気味悪さ、馬鹿らしさ、滑稽さ、虫を隠していた家族にたいする怒りや白眼視もわかる。追い立てられて自分の部屋にのろのろと戻るしかないグレーゴルの惨めさ、ばつの悪さ、そして絶望もわかる。それらが一つの場面で一緒くたになってなんとも言いようのない笑い、グレーゴルの絶望がほんの小さな点になるくらいにまで後退して読者はなぜか大きな馬鹿笑いにさそわれる。この中編小説の峠にあたる場面だ。
  翌朝グレーゴルは衰弱死する。肉体の衰えに輪をかけるように絶望と大破綻を身をもって知ってしまったからだが、カフカはもはや彼の生の惨めさをくりかえしたくなかったのか。人に疎まれるさなかで真性の欲望につきうごかされて実現不可能な望みを抱いて動き、さらに決定的に人に疎まれるという構造がここにある。またそれはグレーゴルにすれば潔い死とはいえない。惨めさをより小さくするために人は死を選ぶであろうからで、逆に彼はそれを大きくした。だが最後にはグレーゴルが望んだであろう場面が到来する。彼の死を機に家族三人は団結する。間借り人を追い出すことから始め、さらに久々に郊外に出かけていき新鮮な空気を吸う。そして父母は娘が成長して少女から成熟した女性になりつつあることをまばゆく見守る。結婚相手を娘のためにみつけてやりたいと自然に思うようになる。何も書かれてはいないが、これは虫に変身しても人間の心を失わなかったグレーゴルの願いでもあるのだ。

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