大洋ボート

カフカ『審判』(3)

  ヨーゼフ・Kは女性にもてる。この小説に潤いをもたらしてくれる部分だ。「逮捕」されてからのKはなんとしてでも人とつながりをもちたい、自分の訴えをわかってもらいたいという願いを切実にもつが、女性(異性)へのあこがれや執着は「逮捕」以前からKに根付いていたと思われる。そのうえで、人とのつながりをもちたいという願いがその欲望をさらに刺激する。一対の男女において欲望が各々においてあれば二人の結びつきは早く、この小説においてもそうなる。性愛は人間が本来的にもつ健全な欲望であり、いくら社会的にひどい目にあってもその健全さが保たれることはおおいにある。その本能的な発露がKにとっての健全さの自己確認であり、性愛の部分における自己解放だ。だがそれがそのまま社会的な解放に、この場合では「無罪」につながらないこともKはよく知っている。Kの無罪を認めたうえでKの行動方針に同調しないかぎりは、女性はKにとっての社会的解放の援助者には、ひいてはKの伴侶にはなりえない存在だし、そこまでに女性を変貌させる力は性愛自体には残念ながらない。
  同じ建物に部屋を借りるビュルストナー嬢、裁判所に寄食する既婚の「洗濯女」、さらにフルト弁護士の家政婦兼助手のレニという三人だ。この三人とは性行為までは行かないが、抱擁とキスまではほんの短時間でたどりつく。もっともKが「洗濯女」の逃亡の援助やレニの「自白すれば」という勧めを承諾すれば関係はもっと深まるだろうと推測できるがそこまでにはならない。Kはとくに禁欲的ではないものの、彼女たちの勧めに応じて冤罪を晴らしたいという彼自身の目的を下ろしてしまうほどには女性に入れあげないのだ。だから男女の物語としては発端で終わってしまってあとは何もないということになるが、彼女たちのKにたいするあこがれと同情は重要で、はっとするところがある。この小説の忘れられない美点になっている。レニは弁護士を訪ねてくる依頼者のだれとなくいい仲になるし、「洗濯女」にしてもそうではないかと思わせる。つまり彼女らの欲望はK一人に向けられるのではないが、それにしても不特定の「被告」にたいする彼女たちの同情と依頼心にはうつくしさがある。そしておおぜいの被告のなかのただの一人ではなく、その頂点に立つのがKであると、K自身が恍惚とともに思いなしていると私は読みたい。弁護士フルトはなかばはお世辞にしてもレニの心情を代弁する。フルト自身の感懐でもあるようだ。

  「(略)レニの変わったところというのは、たいていの被告が気に入ってしまうことです。気がうつり、好きになり、それにみんなからも好かれるらしい。たのしませるためでしょうが、わたしが承諾すると、おりおり話してくれますよ。あなたはどうやら驚いておられるようですが、わたしは不思議に思いません。ちゃんとした目をもっているなら、被告はたしかに美しい。それというのも、ある種独特の、いわば自然科学のようなあらわれであるからです。訴えられた結果ですが、外見に何かはっきりしない、何ともいいようのない変化が生じてきます。ほかの裁判沙汰とはちがっています。たいていはふだんどおりで、しっかりとした弁護士に面倒を見てもらえば、裁判にさほど影響されない。それでも経験を積んだ者には、大勢のなかから被告をきちんと識別できるのです。どうしてか、とおたずねになるでしょう。わたしの答えが呑みこめないかもしれませんね。被告は並外れて美しいからです。被告を美しくしているのは罪のせいではではないでしょう。なぜならば──少なくとも弁護士として申すわけですが──被告のだれもが罪人じゃない。将来の罰が美しく輝かせているのでもありえない。だれもが罰せられるわけではないですからね。とするとただ一つ、被告に課せられた審問のせいであって、それが身にまといついているからでしょう。美しい者たちのなかで、とりわけて美しいのがいるものです。ともあれ、誰もが美しい。ブロックですら、あの哀れなウジ虫ですら美しい」
  弁護士が話し終えたとき、Kはすっかり感動していた。最後のくだりでは大きくうなづきさえした。日ごろ考えていることを、みずからで確認したようなものだ。弁護士がつねづね、そしてこのたびもまた、裁判とかかわりのない一般的なおしゃべりをして、実際にKの件で何をすべきかという主題からそらしてしまうのだ。(p231~232)



  Kが弁護依頼を断りにたずねていった場面で、弁護士が話をそらすのをにがにがしくも思うが、それよりも私は被告を「美しい」と呼ぶフルトの言葉に感動を覚えるKに共感せずにはいられないのだ。非日常のなかで漂いながらたたかいをつづける者への応援であり、K自身が自分のありようを価値づけるにたる言葉でもある。カフカはフルトにこう言わせることによってKに自負を植え付けたっかたのだろう。Kの意志が固いので当然の成り行きであるがKとフルトは袂を分かち、それきりレニとも会えなくなるが、最良の人間関係がここに刻まれていると見ることができるのではないか。お互いの立場はゆずれないものの、それを承知のうえで、透明な隔壁を間に挟みながらの呼びかけあう人間関係。
  (了)
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