大洋ボート

カフカ『審判』(2)

審判 (カフカ小説全集)審判 (カフカ小説全集)
(2001/01)
フランツ カフカ

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  Kは「頑固」一点張りでは打開の道が開けないことがわかってきて、叔父の勧めもあって弁護士を訪問する。ここでもカフカは読者とKをあきれさせる。フルトというその弁護士が語るところでは、私たちがイメージする今日の裁判制度とはまるでかけ離れているのだ。裁判は非公開であり被告は出席することはできるが弁護士は許されない。それ以前に訴状すら被告も弁護士も最終的に結審した後にしか閲覧することができない。そして弁護士という身分さえも法的に認められた存在ではなく、裁判所によってしぶしぶ「我慢されている」存在でしかない。だから弁護士は表だって検事や判事に質問したり反論したりはできない、訴状の不備を指摘することも勿論できない。では弁護士とはこの場合、どういう役割を果たせるかというと裁判所の判事や事務員との人的なつながりをつうじて情報を仕入れることや「鼻薬」を嗅がせて、つまり賄賂工作などをつうじて被告への心証をやわらげることにかぎられる。だがそれが必ずしも功を奏するとはかぎらず、あまり手を突っこみすぎると裁判所の当の人の感情を刺激してかえって逆効果をもたらすこともあるという。またフルト弁護士も例外ではなく、Kにたいする訴状を発布したような高位の検事や裁判官との直接のつながりはなく下位の人とのつながりしかなく、下位の人も高位の人とのつながりはない。下位の人においては役割と等級がおびただしく細分化されているので小さな裁判ひとつ取ってみてもその全貌を知ることもかなわない。推察するに書類や手続きが細分化されていてそのひとつひとつがそれぞれ別の人のところに持ち込まれて、裁判官ですらそれらをひとまとめにして閲覧・検討することができないということだろうか。だから裁判に立ち会える被告が裁判については一番よく知っていて、被告にたえず寄り添う弁護士がその次に知っている。裁判官はそれ以下の範囲の知識しかもつことができないという逆転現象が生じる。またそのような下っ端の裁判官や事務員は法律の知識にもうとく、弁護士に教えを請うこともある。「いい知らせ」を弁護士にもちこむこともあるが、それが法廷に適用されるとはかぎらず逆の事例もある。まことに彼等はわがまま勝手であり弁護士を便利屋のように使ったり侮辱したりする存在で、フルトはそのような人間関係をつうじてしか裁判に関わりを持つことができず、そのうえで裁判を有利に展開する「原則」などないとまではっきり言うのだ。
  まるで茫洋として、気が遠くなる話ではないか。結局のところ、フルトは独特の嗅覚があるのか知らないが、下手に動くことをおそれてKのために何もしてくれない、Kの裁判に関する「請願書」を作成したものの未提出のままでKをがっかりさせるしかなく、Kは弁護を断ることになる。カフカは何も書かないが、私は弁護士料をつりあげるための工作ではないかと勘ぐりたくもなる。
  Kは藁にもすがる思いだ。「逮捕」の先にどんなきびしい処分が待っているのか不安でしょうがない。打開の糸口をなんとか見つけ出したい思いで、たぶん賄賂など払わないと言った最初の頃の意気軒昂さは影をひそめるのだろう。Kは銀行の支配人であり取引先など知り合いが多いから、そのなかの一人「工場主」から裁判所の事情にくわしい画家ティトレリを紹介される。言うまでもないが、Kの逮捕の件はKの周辺では知らない人はいないからこういう世話焼きも登場してくる。画家は父の代から裁判官の肖像画を描くことを主な収入源にしているらしく、やはり裁判所に寄食する人の一人であり、日頃の裁判所の人とのつきあいからその方面における情報も自然と耳に入ってくる。だが彼の説明もKにまたしても絶望的な見通ししかもたらしてくれない。ティトレリのいうには、彼が裁判官に工作して得られる可能性は三通りあり、「ほんとうの自由と、見かけの自由と、引きずっていく場合」だ。「ほんとうの自由」とは無罪釈放をさすが、これは画家自身が一度も見聞したことがないから理論的にはともかくもきわめて実現性にとぼしい。「見かけの自由」とは、カフカの書きぶりは例によってながながしいが、私が解釈するに一審と二審との間における「保釈」にあたる身分であり、最終的な裁判の結論ではないから次の裁判が待ち受けている。「ひきずり」とは裁判を下級審においたまま長期化することにあたると思えるが、裁判そのものは進行するので「尋問」や家宅捜査も行われるということだ。二番目も三番目もいずれは未来に有罪判決が待っていて覆しがたいことがほのめかされる。また画家がその種の工作のためにKに資金を要求することも言うまでもない。
  弁護士もこの画家も裁判所にぶらさがって職分をえている。長年の経験に裏付けられた手法を心得ていて、暗中模索の反面こうすればこうなるという職業的勘も併せもっている、そうして自信たっぷりにふんぞりかえっている。「正しさ」に奉仕することなどその職分にひっかかる範囲にかぎってのことで、彼等は彼等の世界から逸脱することなど露ほども考えない。彼等からみればKはその世界の初心者であり「お客さん」であるが、幼稚な者とみなされる。Kが無罪であるという主張を実は二人とも最初から受け入れない。弁護士はそれをうやむやにするが画家は露骨に自信をこめてKにそれを告げるという表面上の応対のちがいがあるに過ぎないのだ。Kは打ち砕かれる。自分は無罪であり「正しい」人間だという自分にとっての自明さがまるでとっかかりをえられない。発する言葉が正確に受けとめられて反論されるならまだしも、Kにとっては受けとめられる以前にあしらわれる気がする、結論は始めから決まり切っていて門前払いを食らわされる。予想だにしない「裁判」の世界だ。だからKにとってはやがて「正しさ」を言いつのることが気恥ずかしさや息苦しさとなってはねかえってくる。そういうKの狼狽ぶりをカフカはこれでもかこれでもかと粘りっこく描きだす。たとえば、こういうことがある。画家の住まいは貧しい人の住む集合住宅の上階にあり、たった一部屋の間取り。ベッドと仕事に使うキャンバスですでに大部分が占領される状態で狭苦しく、Kの執務室と比べれば雲泥の差がある。そこでKが味わう暑苦しさは画家の態度と言葉が横柄で衝撃的で、Kに平衡感覚を失わせるからだが、さらに読者とKを面食らわせるのはそんな狭い部屋にもドアがふたつあって、ベッドを跨がなければ開けられないという常識外れの位置にあるそのひとつを実際に開けてみれば、そこは裁判所の事務局の廊下そのものなのである。ぞっとする笑いがこみあげてくるではないか。裁判官が画家ティトレリのモデルになるためにそこを開けてベッドを踏み越えてくるのだ。 
  「大弁護士」や上級審のことも、フルト弁護士や画家ティトレリによって触れられているが、彼等はその存在をうすうす知っているというだけで、会ったこともなければ見たこともなく、彼等の工作など効かせようがない。裁判自体がいいかげんなうえ、二層にも三層にも構造化されていて、裁判制度がいかに個人にとって不透明でつかみどころのないものなのかというカフカのだめ押しである。カフカの伝記的な事柄は私は知らないが、訳者あとがきによるとカフカは司法試験に合格した後、司法研修生などを経て小官吏の地位をえたということだ。それなら裁判制度の実際の運用のされ方を身近で目撃したにちがいなく、その杜撰さやまだるっこしさが個人の人権をどれほどないがしろにし、不条理感を抱かせるに十分過ぎるものか知り尽くしていたのではないか。『審判』に書かれた裁判制度がカフカが生きた時代のそれとどれほどの異同があるのかわからないが、カフカが有したであろう問題意識がカフカ独特の残酷さとユーモアを際立たせた小説作法において結晶した。さらにそれは何も裁判や法律にかぎられた範囲のことではなく、不条理感は私たちにとってもっと一般的で、私たちの存在基盤のなかに深く打ち込まれているのではないか、という苦い認識でもある。なにも「逮捕」というおどろおどろしい事態でなくても、いったん非日常性のなかに投げこまれるとそこからめったに脱出できない、それならば「非日常性」とそこで抱かされる不条理感こそが私たちの存在の本質だとカフカは訴えてくる。私たちは勿論日常のなかで多く生きているのであり、それがいつまでも覆されないことを願うが、外部からの作用によっていつそうならないともかぎらない。またそうならないまでもまた私たちすべてではないにせよ、過去において「非日常性」の爪に触れた記憶はあり、そこで発生した問題意識はながくつづくので、カフカとの縁を体感させられるのだ。
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