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アリステア・マクラウド「夏の終わり」

灰色の輝ける贈り物 (新潮クレスト・ブックス)灰色の輝ける贈り物 (新潮クレスト・ブックス)
(2002/11)
アリステア マクラウド

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  歌はどこから聞こえてくるのだろう。労働につけ会合につけ歌われてきた、先祖代々にわたって受け継がれてきたゲール語の歌。それが人生の峠を越えたと実感した男の耳になんとも自然に、やさしげにふたたび聞こえてくる。以前にも増して自分の境遇にもっとも似つかわしいものとして親しげに聞こえる。彼は困難だった自身の人生について親しい人に語りかけたいとの思いを抱いているが、自己表現することが苦手である。その歌は自己表現そのものではないが、つまりは自分個人について語りかける歌ではないが、歌と自分との関係においてだけ見れば巧くいったときの自己表現にも似た満足感をあたえてくれる。自分の身体の中心に錘がすっと沈みこむような充足感であり、揺るがない状態をうることができる。困難で不幸続きだった人生のなかにも幸福感がある。これでよかったのだという確信である。そして彼は彼にとってのゲール語の歌に相当する歌が、やはり疎遠になりがちな彼の家族にも存在することを想像し、かつ望むのだ。この短編が私に語りかけてくれた全体像を、まずは記してみた。
  マクラウドの諸短編は、ほとんどが青年や子供の眼をとおして見た親やさらに先行する世代のケープ・ブレトン島における貧しい生活ぶりであり、親愛と敬意が率直にはらわれている。その気持ちよさはこの「夏の終わり」でも変わらないが、ここでは主人公はおそらくは五十代以上で、つまりは親の世代である。彼は穴掘り人(抗夫)で、もうすぐアフリカの鉱山開発の仕事に旅立とうとしているところで、夏の休暇を故郷のケープ・ブレトン島で仕事仲間とともに過ごしている。観光客の訪れない小さなうつくしい入り江を贅沢に占領して、波とたわむれたり滝に打たれたり、寝そべって日光浴をしながら酒を飲んだりする。夏が終わろうとする最後の一日だ。鋭気を養うというところか。だが彼等のほとんどが身体に傷を負っている。穴掘り人についてまわる事故のせいで、指が何本かなかったり、片耳がそげていたり片目がつぶれていたりする。裸体をさらすことで衣服によって隠されていた傷があらわになって、リゾート気分に小さな影を落とす。そこから主人公の回想に入るのだが、この導入部が島の風景のうつくしさと重なりあって巧みだ。
  主人公は親に強制されたのではなく、穴掘りの仕事が好きで若いときから従事した。大学でスポーツをやったこともあるが、坑道の狭い空間にかえって肉体の解放を実感したという変わり者だ。だが同じ穴で弟を喪った。また祖父も同じ仕事で死んだ。弟のそれは勿論、事故に遭遇した人の救援にも行き、すでに死体となりはてた人体を収容したことも少なくなかった。棺に収めた遺体を家族のもとに届け埋葬の穴も掘った。悲しみはそこにどうしようもなくついてくるが、それだけではない。やるべきことをやってきたという誇りがある。まして荒々しさだけではない穴掘り人特有の職人的勘を鍛えてきた。エンジニアの机上の計算よりも現場におけるや嗅覚のほうが、たとえば爆薬の分量をどれくらいにするとか決めるときにははるかに役立つ。また、滅多に帰宅することのできないスケジュールであり、若いときに熱烈に愛し合った妻とも疎遠さが増した。手紙での言葉も最小限度で、これは表現力のなさかもしれないし照れかもしれない。子供たちも成人して都会に移って暮らしている。だが主人公にはやはり家族のために仕事をやってきたという自負があるのだろう。一人称形式だからであろうか、自慢をそこまであからさまにはしないが、すくなくとも半分以上はやりとげた、峠を越えたという感覚は自然ににじみでいる。そしてゲール語の歌である。
  子供のときから聴かされ、穴掘り人になってからも自然に口についてきた。文化保存の催しにも駆り出されて披露した。その歌が今、先に書いたように自己表現ではないもののそれに似た感覚であらたに立ちのぼってきて腑に落ちる。職業や故郷や家族を大事にし、慈しんできた人として、そうした人の理想像として主人公は作者によって描かれている。だが主人公はその理想どおりにいたって冷静でもある。彼に死が見えないはずはない、もしかすると事故死してしまうかもしれないという恐怖が決してないことはないと読んだ。ゲール語の歌に添うようにもうひとつの詩が主人公の目にとまる。アフリカへ旅立つための荷造りのときにそれは発見される。大学時代に学んだという。ゲール語ではなく十五世紀の「古い英語」(訳者あとがき)で書かれた詩であるが、八行の詩の後半の四行は次のとおり。

私は死へと旅立つ、真に王である私は。
名誉やこの世の喜びが何の役にたとう。
死は人にとって当然進むべき道。
私は死んで土塊を身に纏うことになる。
 (p233)

  冷静な主人公は、その認識において正確でなければならないとも思い返したのだろうか。勿論、職務上死ぬとはかぎらないが、そうかといって死なないともかぎらないのだ。その運命を逃れることはできないから認識においてふり落とすことはできない。また認識であるよりも眠っていた記憶にふれたといったほうが正確かもしれない。そして、ゲール語の歌にも歌詞は当然あるのだろうが、そちらを紹介しないことがこの詩を最後になって効果的に際立たせる。この詩が主人公を萎えさせたのではない。幸福感に影を落としたようだが、それによって彼の自負や幸福がついえたのではない。可能性としての死を見すえることをも幸福につけくわえようとするのだろう。人として立派で理想的である。私自身の凡庸さを知らされる気がする。一行はアフリカへ旅立つために島を離れてトロントをめざして車で移動する。車中で主人公はこの詩とゲール語の歌との不可分性に気づかされる。それはゲール語の歌を知る人全体のものではなく、彼固有のものである。最後にきてのこの転換を見逃してはならない。

猛スピードで走る車のなかでゲール語の合唱に包まれながら、突然、この詩が頭に浮かんでくる。とくにそれを歓迎しているわけでも思い出そうとしているわけでもなく、実際、ほとんど忘れかけていた詩なのだが、別に会いたいとも思っていなかった古い知人が目の隅に入ってくるように、こちらの意志とは関係なく頭に入ってくる。求められても期待されてもいない、ろくに記憶されてもいないのに、ふたたびやってくる。それは、高くうねる大波の上に点在する白い泡のように、高まり波打つゲール語の声に持ちあげられ運ばれてくる。違うけれども似ており、似ているけれども違う。そして、その時が来れば拒むことはできない。(p232)


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