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服部龍二『広田弘毅』(2)

広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書)広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書)
(2008/06)
服部 龍二

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  さらに広田は総理大臣にまで就任する。ときに一九三六年三月五日。二・二六事件で岡田内閣が倒れた直後で、重臣会議では近衛文麿が推戴されたものの近衛が難局を予想して拝辞したからで、広田が担ぎ出された。広田の軍への妥協的態度を危ぶむ声もあったというが、服部氏によれば「人材が払底していた」。また広田自身が首相を引き受けた理由を服部氏は二・二六事件や陸軍への怒りであるとする。たしかに私が読んでも首相期の前半には広田の気力の充実ぶりがうかがえる。広田は「粛軍」にこだわった。悪名高い「陸海軍大臣現役武官制」の復活であるが、陸軍自らの粛軍のためのこの要求(二・二六事件に影響力があったとされる陸軍皇道派を予備役としてその復活を無にするという名目がある)を呑む交換条件として広田は、総理大臣による陸軍大臣の直接選任制を提起して寺内、永野の陸海軍両大臣に同意させた。戦後の政治制度ではまったく当然のことながら、この時期においては首相の権限がこのように弱かった。(「帝国国防方針」の策定にも首相は参加できなかった)だが残念なことにこれは結局うやむやになってしまった。「詰めの甘さが広田らしいところでもあった」と服部氏は記す。なお、それまでは陸軍大臣の場合は陸軍の三長官で決められていた。結果としては実らなかったものの広田はふんばりを見せたのではないか。
  広田はまた陸軍の組閣人事への介入を粘りづよく阻止した。政党出身者の入閣を二人とせよという要求をはねのけて四人にした。ただ親欧米派の吉田茂の外相就任は陸軍の毛嫌いによって実現はならなかった。また広田は天皇を軍批判に「利用」した。国会開院式での天皇の勅語を広田は下書きして天皇に読ませたのである。型どおりの文言のあと「今次東京に起れる事件は朕が恨みとする所なり 我が忠良なる臣民朝野和協文武一致力を国運の進暢(しんちょう)に効さむことを期せよ」と天皇から言葉が発せられると、議場は静まりかえった。「事件」とは二・二六のこと。この勅語は議員、国民、陸軍軍人に大きな影響力をもたらしたという。天皇の政治利用だから批判されなければならないが、むしろ私は広田のなりふりかまわぬ手法に共感するところがないことはない。なんでもやってやれという気概だろうか。だが広田の抵抗もここまでのようで、以後は例によって軍部の圧力にしだいに妥協的になっていく。
  一九三六年十一月二十五日、広田内閣は日独防共協定を締結した。大使時代以来の実績からソ連との宥和を期待された広田だったが、この協定によってソ連を敵対視することになり逆方向に舵を切ることになった。もっとも広田は防共協定への中国の参加を希望していたようだが、日中の反目が増しつつある時期ではかなわぬ夢であった。三六年のそれ以前には支那駐屯軍の増強や「国策の基準」が決定された。海軍の南方進出を謳ったもので、軍事予算の大盤振る舞いの理由付けにされた。戦争を直ちにやるというものではないにせよ、その下準備が広田内閣のもとで着々とすすめられたのである。一九三七年一月二三日広田内閣は総辞職した。寺内陸相が解散を頑強に主張して収拾できなかったからという。
  だが広田は同年の後半にははやくも政治の表舞台に復帰する。林銑十郎内閣が倒れたあと六月四日に近衛内閣が成立し、広田は外相に就任したのである。またしても「人材の払底」なのか。そしてまもなく廬溝橋事件が起きる。これに関しては他の読書感想文でふれたので繰りかえさないが、近衛は対中国への強硬路線を選択してしまった、日中戦争の泥沼化への口火を切ってしまったのである。広田が近衛の方針に反対した形跡はないとのことで、これは現役の外務省官僚や政治家の広田にたいする危惧(軍部にたいする抵抗力の弱さ)が的中してしまったことになる。近衛にたいしても広田は無抵抗だった。私もしだいにこの文をつづける意欲が減退するのを感じるがもう少し書き継がねばならない。広田や日本政府は蒋介石政権にたいして駐華ドイツ大使トラウトマンを介してなどさまざまな和平工作を試みるが、次第にその条件をつりあげていき降伏勧告にもひとしいものとなり、蒋政権をかえって離反・敵対させた。日本軍の快進撃と世論の突き上げが背景にあったものだ。広田は元来は日中提携論者であり蒋介石政府を中国の正当政府として認めたうえで和平交渉を試みる方針であった。蒋も広田のそういう姿勢に当初は期待をかけていたし、政権内部の親日派もまたとくにそうだった。これにたいし陸軍は中国分断論が根幹にあった。つまり蒋政府を弱体化させて別の政権を樹立させようとの意図を抱懐していて、そのことはやがてのちの汪兆銘の南京政府として結果するにいたるのだが、広田は陸軍のそういう方針にしだいに軸足を移していった。
  三七年十二月十三日南京陥落。日本国民は熱狂し、東京では四十万人もの提灯行列ができ「万歳」をくりかえして練り歩いたという。だが南京では「南京事件」とのちに呼ばれる日本軍による虐殺事件が起きていた。外務省はその報告を外交官や外国人から電報で受け取り広田も知るところとなったが、広田は陸軍に抗議したものの閣議には報告しなかった。つまり閣僚の耳にはこの事件は入らなかった。広田のその行動(無作為)の真意は不明だが、このことが東京裁判で重要問題としてとりあげられて広田の絞首刑判決の理由のひとつとなった。

  時代の先行きがみえなくなったとき、ともすると人心はカリスマ的な指導者を待望し、軍事力による国威の発揚を求める。国民に祭り上げられた指導者もまた、脆い政治基盤と責任感のなさから大衆に迎合しがちとなる。だが、強攻策によって政権を維持したとしても、そのつけは、政府だけでなく国民にも重くのしかかっていく。
  この時代でいえば、近衛がまさにそのような指導者であった。国民の人気に頼りがちな近衛は、世論を煽って熱狂的な支持を得た末に、日中戦争を収拾できなくなった。もともと職業外交官であり、経験に富む広田は、一回り以上若い近衛を諫める立場にあった。しかしながら、現地での停戦を否定するかのように近衛内閣が派兵や戦費調達を決定するなかで、副総理格の広田は消極的に賛成を繰り返した。(p196)


  服部氏のこの言葉に何もつけくわえる言葉はない。
  近衛内閣は一九三九年一月総辞職。この後は平沼騏一郎、阿部信行、米内光政が首相に就いたがいずれも短命内閣で、一九四〇年七月近衛文麿が再び首相に就任した(第二次、第三次近衛内閣~一九四一年十月)。おやっと思うのは平沼の次の首相候補に広田の名前が重臣会議でふたたびあがったことである。広田を推薦したのは近衛で、逆に広田はそれを受けて近衛を推薦した。「人材の払底」という言葉をまたしても使わなければならない。この小文で三回目である。この時代に文民政治家がいかにも不足していたことの証左で、近衛と広田は「試験済み」だった。これでは戦争にのめりこんでいく国家体制を立て直すことが人材面で困難だったとみる他ない。広田は米内内閣にあっては参議という閣僚と同等の地位にあり(現在でいう無任所大臣か)それを辞した後も重臣会議に参加しつづけた。ただ広田にしてはめずらしく語気を荒げた場面があった。一九四〇年九月二七日日独伊三国軍事同盟が締結された後、近衛首相は松岡外相、東条陸相をまじえて重臣会議にこれを報告した。広田はこのとき「立役者」である松岡洋右に向かってこういったという。

 「本条約締結は何の必要があるのか、自分には解らぬ。現下日本外交で一番必要な事は支那事変の終結である。然るに本条約の締結は英米を真正面に敵とする事になる。そうすると蒋介石は当然此の事態を利用して英米を支那側に引付けるべく努めるであろう。そうすると支那事変の終了は愈愈(いよいよ)困難になる」(「東京裁判広田弘毅元首相弁護資料」一四四)
 広田の意見に押された松岡が、「意見の相違である」と口をにごすと、広田はさらに問いつめた。
 「英米は今迄支那にも、日本にも公平に物資を供給して居る。然るに英米を敵に廻したら、何処から物資を入れる事ができるか」(p205)


  服部氏に「詰めの甘さ」を指摘される広田だが、この日はめずらしく意見をつづけたという。このあとは省略するが、引用した部分だけでも広田はまったく正しい意見を吐いたのだ。ならば何故に広田自身が三国同盟に先立って日独防共協定を締結したのかという疑問が湧いてくるが、広田自身が同協定の軍事同盟への発展を危惧していたので、こういう罵倒といっていいほどの言葉となったのか?この書を読んで胸のすく思いがする個所であるが、同時に遅い気もする。これだけの気概を外相、首相時代に松岡のような人ではなく陸軍軍人に向けられていたらなあという思いが出てくるが、ないものねだりか。
  広田の政治活動はこのあとも終戦期までつづく。一九四五年六月頃の駐日ソ連大使との非公式の接触などあるが省略する。
  広田弘毅の政治的足跡をたどりながら同時に政治と軍事の全体的推移をも俯瞰できる好著で、私にしては丹念にあるいはぐずぐずと読んだが、未知の分野の知識を素人的に興味を持ってとりいれるという以上のことができたか、疑問である。蛇足だが少し書いてみたい。つまり私自身の現在とどう関わるのか、とおい時代が自分もふくめて現在とはたして切実な関係づけができるのか。あるのかないのかと問われれば少なくとも今の自分のなかには空白が口を開けている気がする。「とおい時代」にたいして力をこめて肉薄できないとでもいうのか、あるいはそれは当たり前なのか。だらだらと書いたのかもしれないが、「とおい時代」との距離のとりかたを意識しなければならないということだろうか。本の感想からはなれて、最後には自分自身のそういうありように逢着した。


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