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服部龍二『広田弘毅』(1)

広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書)広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書)
(2008/06)
服部 龍二

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  激動の一九三〇年代において首相、外相を歴任した広田弘毅の政治的足跡をたどった書。のちの東京裁判(極東軍事裁判)で広田は戦争犯罪者として訴追され死刑判決を下されて刑場の露と消えた。死刑に処せられたのは東条英機はじめ七人であるが、広田は唯一の「文官」で、残りの人はすべて陸軍軍人であった。いわゆる十五年戦争期にあって最重要の政治的立場にあった人だから責任を問われても仕方がないところだろう。裁判が「勝者の裁き」であっても見せしめであっても、また死刑という処断が酷であるとしても、それ以前の問題として。つまり裁判という形ではなく、公正さを旨としてあらためて戦争期を総括しても、やはり広田という人の立場上の責任は免れないだろう。
  そんななか、著者の服部龍二はつとめて冷静に広田の足跡を追うている。はじめから意図的に責任を追究するという立場ではなく、当時の政治情勢とそのなかの広田の言動をつとめて客観的に浮かびあがらせることによって、おのづからその政治的責任が明瞭化される仕組みになっている。だから逆に同時に広田の功績もまた読者は知ることができる。だがやはり批判をあまり控えるのも不自然で、そこにジレンマがある。極刑に処された人をあとから批判することは容易だが、気が重いものでもあるだろう。机に向かっても何も書けない日がつづいたと「あとがき」で服部氏は記している。
  この書にかぎらず当時の戦争に関する本を何冊か読んでみて一番思ったことは、政府=内閣が最高意志決定機関としての体をなしていないということだ。陸軍が首相や内閣の意向などおかまいなくアジア大陸で勝手なことをする。それが既成事実化してしまうと、それを首相等は後戻りさせようとは決してしないようだ。つまり陸軍という組織に大胆に手を突っこんで解体してしまうほどの行動を政府はついに執ることがなかった。シビリアン・コントロールという制度的保障がなかったことが第一要因だが(陸海軍大臣は当時は軍人にかぎられた)、さらにその意味合いの範囲を狭めると、よくいわれるように「統帥権」に政府が口出しできないという制度にもなっていた。戦争地域での作戦や兵の移動は軍が独自に決められた。政府は予算編成の決定権を有していたが、軍もまた政府の一員であった。それに一九三〇年代から終戦期までの内閣はほとんどが一年にも満たない短命で、あまりにも替わりすぎて、それこそ腰を据えて強固な「意志決定」を形成する時間が足りなかったようにも思える。なかには首相としての「大命降下」をくだされながら陸軍の反対にあって組閣できなかった宇垣一成という人もいた。通算で二年以上首相の地位にあったのは近衛文麿、東条英機と斉藤実(1932,5~34,7)のみで、前二者は戦争べったりの内閣であった。また三〇年代以降の十五人の首相のうち十人が軍人である。
  いったい内閣とは何だったのか。陸軍にとってはたんに自己主張をゴリ押ししたり予算をぶんどってくるだけの出先機関ではなかったか。政治・軍事方針は陸軍独自で自己完結的に練りあげ決定しそれに予算をつけて実行する。大陸における政治軍事施策は陸軍の独断専行であったようだ。内閣(およびその周縁部)とはまた戦争拡大に消極的な天皇の意を受けた元老西園寺公望やその周辺の人たち、国際協調を旨とする文民政治家たちが軍部と向き合う場所であったが、その対決姿勢がどれほどのものだったのか、今日において批判は容易だがやはり及び腰、軍部をなだめすかす、その方針をいくぶんか妥協させるという以上ではなかったと見える。そこには国内的まとまりを優先させるための双方の妥協があり、軍が優勢のときは軍よりの政策がとられたということがある。そのことが対外政策を結果的に変更させ歪ませた。また文民政治家が徒手空拳で軍部に立ち向かうことには限界がある、心身をすり減らすことは明らかで、とくに二・二六事件のようなテロを目の当たりにすればこわいだろう。そこに同情の余地はあるとしても、あまりに軍部べったりならばやはり批判を控えることはできない。とくに日中戦争を煽った近衛文麿はひどいもので、第一次近衛内閣の外相だった広田弘毅も近衛の方針に反対しなかったから同罪というべきだろう。以上は日本の戦争期にたいする私の現在までの概略的な観察である。
  広田弘毅が日本政治の表舞台に出るのは1933年9月、斉藤実内閣の外相就任が最初であるが、その前には駐ソ大使を任じていた。そのときの政治経済全般にわたる「粘り強い交渉」が信頼を得て外相を要請されたという。また外務省やその出身者の主流派であった幣原喜重郎(一九二〇年代に外相)の派に広田が属していなかったことも推薦者の意に適ったのだろうとの服部龍二の指摘である。すでに満州国が建国され、国際連盟から日本が脱退してしまった時期だった。広田は連盟脱退には反対だったが、政治の表舞台に立つとなると外交の根幹方針は継続させなければならない。満州国の隆盛と蒋介石の国民政府との融和、つまり日満支提携を構築しなければならず、他方では英米との国際協調もはからなければならなかった。服部はこれを二正面外交と呼び、その困難性、「隘路」を指摘する。蒋介石はもとより英米は満州国を承認しなかったし、(のちにドイツ、イタリア、スペイン等が承認)また蒋介石国民政府との交流も持続させていた。中国内の反満、反日の動きは活発で、中国領土内で日本人が殺害されたこともあったらしい。日本や陸軍は当然憤激したが、あまり国民政府にたいして軍事的攻勢を強めると英米の反撥を呼ばざるをえない。そこに「二正面外交」の困難性がある。
  だが広田は駐華(日本人)公使を大使に昇格させるという対中融和策を果敢に施行した。駐日(中国人)公使の大使昇格も同時的になされた。広田の中国重視のあらわれであり、汪兆銘をはじめ蒋介石政権内部の親日派を喜ばせたようだ。ソ連が権利をもっていた北満鉄道の買収成功につづく広田の外向的成果だと服部氏は指摘する。大使という地位は公使にくらべるとその政治的発言権は増大するものと推察される。また自国日本が「大国」として中国を認めたことのあらわれだろう。軍事一辺倒の陸軍とのあいだに一線を画したうえでの外交宣言とも受けとれる。だがこのことが逆に大陸の陸軍に危機感をつのらせたようで、ほとんど同時的に広田の外交も後退するにいたる。蒋介石政府は満州国の敵国であり、敵国を優遇するかのような施策は何事か、ということだ。陸軍は満州国国境に接する中国領内(チャハル省、河北省)からの国民政府の影響力排除の行動をとった。「華北分離工作」といわれるものである。当然中国は陸軍の行動にたいして不満で駐日大使蒋作賓は広田に善処をもとめたが、広田は不関与を表明した。出先の陸軍に交渉してくれということだ。なおかつ広田は陸軍に押されてか、その軍事的成果を前提にしてか、中国に不利な交渉条件を提示する。「広田三原則」といわれるものだ。排日の言動の徹底的な取り締まり、「欧米依存政策からの脱却」満州国の「事実上の黙認」、防共のための中国領内への駐兵(当時の田尻愛義(あきよし)青島総領事代理の解釈)などの条件が列記されていた。くわしいことはわかりにくいが「華北分離工作」については中止するともなんとも書かれていなかったようだ。また蒋介石が要求した「平和的解決」の条件も親善、融和という言葉でごまかした感がある。一連の流れをみると、広田は陸軍の大陸での勢いに押されて、最初の志とはうらはらに外交姿勢を妥協・後退させていったと見るほかないだろう。

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