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中川八洋『近衛文麿の戦争責任』

近衛文麿の戦争責任近衛文麿の戦争責任
(2010/08/10)
中川 八洋

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  なかなか厄介な書である。読みはじめたときにはたいへんおもしろい思いがして、もしここに書かれてあることがほんとうならば、かの日本の戦争(廬溝橋事件から敗戦に至までの期間。著者の中川は十五年戦争という呼称をきらい、特にこの間を「八年戦争」と呼んで峻別する)に対する見方を一変させるだけの力はあるにちがいないと思った。だが論証にまでとどいているかというとそうでもない。著者の社会主義とソ連にたいする嫌悪と否定的立場かりが目立って、それでもって論証に強引に置きかえようとするように受けとめられる。牽強付会の感がある。旧ソ連は私も嫌いだし社会主義思想にも疑念があるので、そういう立場にはなんら違和感をもたないのである。だがこの論証の部分のみをもって全体を一笑に付すことはできないものがある。とくに陸軍を中心としたソ連にばかり偏った終戦・和平工作の画策は注目すべきで、あれだけ国内の共産主義勢力を弾圧し忌み嫌った勢力が、ソ連という国に一方では素朴なあこがれを抱いていたとさえ見えることだ。そういう疑いが頭をもたげてくる。鋭い問題提起であり、この書を読んだだけでは腑に落ちるところまでは行けないが、戦争のかくされた一面を覗かされた気がして重い気分にさせられる。厄介というところの所以だ。  

  「八年戦争」のあいだ最も長い期間首相の座にあって三回の組閣をしたのが近衛文麿であり、戦争中の政治的中心人物といっていいが、中川は大胆にも、近衛と陸軍の中枢が「有形・無形の連携プレー」によって日本を意図的に敗戦に導いたと言う。「意図的に」という指摘が重要で新しい。そして、なんとその目的がレーニンの敗戦革命論に倣って、日本を戦争によって荒廃させた後に革命を起こして、日本に共産政権を樹立することにあったというのだ。アメリカの日本占領が思いの外早急だったのでその目論見は破産したことになる。私は戦史については素人で俗耳に入ってくる程度しか知らないが、近衛という人は平和主義者でありながらも周囲の意見に流されやすい優柔不断のお公家政治家という印象がもっぱらであったが、ここでは筋金入りの共産主義者=ソ連礼賛者と決めつけられている。近衛について書かれた他の本も読んでみたが、そういう書き方をしているのはこの本以外にはないのかもしれない。(ネット上で調べるとあるようだ)しかし従来からの近衛にたいする印象を根本的に変える材料はこの本からは拾えない。ただ少し近衛の書いたものを読んでみて、教養豊かでたいへん文章力のある人であることをあらたに知ったことはある。また政治的定見を持たないままに政界に入って登りつめてしまったようで、近衛ばかりではなく戦争期の政治家や軍上層部に共通する欠点であるところの米英軽視の気分は、最後まで改まらなかったようで、さらに政治的手法も確立しないままに右往左往してしまった、そういう見方は少しであるが付加できた気がする。しかし彼が共産主義者であったという中川の見解に首肯するに足るものはえられなかった。 
  近衛は散発的な衝突事件であった廬溝橋事件に際して好戦的な態度をとった。あわただしく派兵案を策定したり、首相官邸に政界、財界、言論界の著名人を集結させて気勢をあげた。当時の日本人の熱っぽい中国打倒気運に調子を合わせてであろうか、現地で調停が成立しかけたにもかかわらずだ。この点は責められても仕方がない近衛である。また日米戦争直前においてアメリカとの和平案成立に腐心した形跡も見られるが、ときの松岡外相や陸軍の強硬姿勢をひるがえすことはできなかった。どうも様子を見る時間が長く人任せにしてしまう傾向があったように見える。決断が遅いのだ。だが近衛が「意図的」にしかも率先して日米戦争に日本を領導していったとは思えない。日米開戦前でも継戦中でもいいが、軍部には近衛とは比較にならないほどの主戦論者が多数いたことは明らかだろう。  中川が近衛=マルクス・レーニン主義者の傍証としてあげているのが尾崎秀美の存在である。彼はソ連のスパイでありゾルゲ事件によって逮捕されのちに処刑されたが、近衛文麿の有力なブレーンであったことも有名だ。日中戦争をあおり立て両国を疲弊させて革命へとつなげるという彼(ソ連)の戦略は、戦後中国に毛沢東政権ができたり、千島・樺太という日本の領土をソ連が簒奪してかの国の領土拡張を実現させることにより、かなりの部分実現した。だが尾崎=近衛ではない。近衛のブレーンは尾崎一人ではなかった。仮に近衛が尾崎にそそのかされたことがあったにせよ、近衛は尾崎がスパイであることを知らなかったからで、知っていて放し飼いにしたのではないのだ。それに近衛はみずから共産主義=ソ連にたいする嫌悪と警戒を天皇にたいして表明しているのだ。敗色濃厚となった昭和二十年二月十四日六名の重臣が天皇に現戦争についての意見表明を上奏したが、近衛もその中の一人で「近衛上奏文」として残されている。中身は、敗戦は必至であり早期の戦争終結にとりかからなければならない。英米は国体護持に賛成してくれる。戦争継続を主張する軍部の革新派はじつは共産主義革命を目指す者たちで、彼等を除かなければならない、というもの。「近衛上奏文」はネット上で全文を眼にすることができるが、中川の引用した部分を孫引きする。

「 翻って国内を見るに、共産革命のあらゆる条件日々具備せられていく……。
即ち 生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動(共産化運動のこと、中川)……。右の内特に憂慮すべきは軍部内一味の革新運動……」
「少壮軍人の多数はわが国体と共産主義は両立するものなりと信じ……」
「これら軍部内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取り巻く
一部官僚および民間有志(これを右翼といふも可、左翼といふも可なり、いわゆる右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人これに踊られたりと見て大過なし……」

 
  天皇はこの近衛の意見にたいしては、特に軍部の革新派の除去については反乱を恐れて賛成しなかったといわれるが、それはともかく、中川は上の「上奏文」を近衛の「赤い軍人」たちへの戦争継続の責任転嫁だとする。自分は共産主義者ではなく、ほんとうの共産主義者は革新派の軍部だといいたがっているとするのだ。これはいかにも強引な解釈ではないか。はじめから近衛=共産主義者というレッテル貼りをしているからこんな見方をするのだろう。筒井清忠という人は陸軍革新派=共産主義者という「上奏文」の文脈を「天皇や反対派説得のためのレトリック」だとしている。つまり大げさに言い立てたということだろう。それに派閥抗争を繰りかえしてきた陸軍には「一貫した革新派の支配」はなかったともいう。今のところ、私は筒井の主張に軍配を上げたい。それに中川は陸軍の革新派が共産主義者であったという論拠をはっきりとは挙げないままなのが致命的だ。陸軍出身者が戦後大挙して日本共産党に入党した事実を挙げるが、だからといって戦中から共産主義者だっという証拠にはならないのだ。唯一引っかかってくるのが種村佐孝(すけたか・大佐で参謀本部戦争指導班長)という人の終戦工作におけるソ連同盟論である。(ただ中川は彼を戦後すぐに共産党員としているがネット上ではシベリア抑留の後のことになっている。ソ連の教育を受けてからのことだ)くわしくは書かないが、アメリカに降伏すると国体を破壊されるからその前にソ連に仲介してもらう。その際ソ連の言い分を領土割譲等全面的に受け入れること、つまりはアメリカに降伏するよりも先にソ連に無条件降伏してしまうくらいにソ連主導を画策したと、中川の紹介のみからだが私には読めた。もしそうならば今日的な視点に立てば種村は極論、暴論を吐いたことになる。
  種村という人からはソ連への親近感が透けて見える。だが、だからといって種村が真性の共産主義者と断定することはできないと私は思う。中川八洋はじめ多くの人が指摘するように、また近衛上奏文において指摘されるように軍部革新派と左翼には共通点がある。国家統制の極大化である。私有財産や商業活動の制限、物価の統制、物資の徴集、大地主の土地所有の制限などで、大きいちがいは天皇を政治的頂点に頂くか排除するかである。同じ事だが、革命の側からすれば左翼のように天皇制打倒をかかげるか、二・二六事件の革新派将校のように「君側の奸」打倒のクーデターによって天皇親政を目指すのか、それとも政権内部にあって国家統制を強化する「上からの革命」をとるのか、というちがいである。またソ連の看板は「労働者国家」であり財閥や大地主という存在はない。一九三〇年代における大粛清も知られざる時代であったから、かの国を看板どおりに受け取って親近感を抱いたとしても無理のないところだろう。だが、この三者がまったく同じだとはとてもいえないだろう。自由な経済活動を社会の中心軸に据える保守派からみれば、三者を一括りにしたい気持ちはわかるが。
  種村のような軍人には、敗戦必至のときにあってあくまでもアメリカに徹底抗戦したい、そうでなくても一矢を報いたいという意地があったのではないか。アメリカとソ連とどちらに降伏すれば打撃が軽いのか、国体(皇室を統治者とする国家体制、またそのもとにおける皇室の身分)を維持してくれるのはどちらか、種村は真面目に考えたのだろうか。ロマノフ王朝はレーニンの革命政権によって廃絶された。終戦直前の時代にもそれは明らかだっただろう。アメリカがその可能性はあったにせよ、アメリカ本体に終戦を打診する以前に国体を破壊すると断定することも早急ではないか。
  中川八洋は日本の政府と軍部はソ連の軍事力を過大評価し、逆にアメリカの軍事力を過小評価した、ダブルスタンダードであったという。そうにちがいない。だがつづいて書くことはわからない。

日本の政府中枢においては、「対英米戦に正義」を、「対ソ戦に不正義」を、感じていたのである。「対米戦争=大義」の宗教的な恍惚状態が日本を支配し、軍事合理性配慮することなど歯牙にもかけられなかった。(p81)


  ここでは近衛や陸軍革新派ではなく「日本の政府中枢」となるが、彼等が「対ソ戦に不正義」を感じていたなどとは初耳で頷けない。ドイツ・イタリアとの三国同盟の最初期の共通敵はソ連であった。また対米戦直前には日ソ中立条約が締結されていたので、あえて戦いを挑む必要はなかった。かりに日本側からソ連に戦端を開いたとしても、ソ連との同盟関係にあったアメリカはやはり日本に戦争を仕掛けた可能性が高いので、たんに二正面戦を避けたに過ぎないと常識的に見るべきではないか。もし日本政府中枢がマルクス・レーニン主義にどっぷり漬かっていたというならば「対ソ戦」はたしかに「不正義」にちがいないが、近衛に関する以上にそんなことはいえない。後半の対米戦争にたいする正義や「宗教的な恍惚状態」という指摘は正しく、体験者でなくともわかる気がする。合理性から逸脱した判断として戦争はあったし、終戦までそれはつづいた。全部の日本人が当時において「恍惚状態」であったは思わないが、狂信的なまでに徹底抗戦をさけぶ連中はいたのだろう。また「恍惚状態」はとんでもないことを思いつくので、ソ連への全面屈服を視野に入れての終戦工作などもその範囲内の出来事かも知れない。
  まあそれにしてもソ連という国をずいぶんと甘く見たものだ。共産主義者だからではなく、戦争という「恍惚状態」の麻薬が生み出した思考判断として私は受け取った。種村という人が発案者なのか、それともたんに実行する部局の代表者なのか、直接調べないとわからないが、この人物個人をうんぬんするのではなく、戦争はとんでもないしかもさまざまな局面へ人を引っぱっていくものだと感じ重々しくさせられた。私にとっての中側八洋のこの書の効用だ。
  さらに近衛文麿である。せっかくの上奏文でソ連共産主義を批判したのだったが、ソ連との交渉が本格化しかけるとソ連派遣特使を引き受けさせられるのだ。首相でなくなってからも近衛という人は、政治家として一目置かれる存在であったようだ。私の印象の半分をいえばやはり「お公家さん」のイメージがくる。下の者がお膳立てをしてくれて、上の者に頼まれると断れなくて引きずられてしまうのだ。それとも、そうではなくて、政治家とは大役を仰せつかると引き受けなければならない運命を背負っているものだろうか。天皇は木戸内大臣に「今度は近衛も大分決意して居るように思う」と言ったという。(筒井清忠『近衛文麿・教養主義的ポピュリストの悲劇』)だが結局この特使派遣はソ連の回答拒否(昭和二十年七月十八日)によって実現はしなかった。   


近衛文麿―教養主義的ポピュリストの悲劇 (岩波現代文庫)近衛文麿―教養主義的ポピュリストの悲劇 (岩波現代文庫)
(2009/05/15)
筒井 清忠

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