大洋ボート

夏目漱石『行人』(2)

  二郎は自分では兄一郎の苦悩をやわらげる自信がない。そこで友人三沢の知人で一郎とおそらく大学時代からの親友でもあるHに、三沢とともに相談をもちかける。Hも一郎の衰弱ぶりを知っていて心配でその要請を引き受ける。Hは一郎とともに伊豆箱根方面に気儘な旅して、そこから二郎宛に長い手紙を書いて詳しいいきさつを知らせる。これが「塵労」の枠組みだ。一郎の思想は若い時代から引きずっている漱石のそれであり、現在の漱石がHとなってそれを噛み砕いて二郎に説明するように私には読めたのだが。また小説のうえではHは二郎やお直にたいして、一郎という人物はこういう風にあつかえばいいのではないかという自慢とヒントを与えている気もする。つまり頭の悪さなど気にせずにどんどん話し合えば兄一郎は胸襟を開く人だと。またHが暴力をふるわれる場面もあるが、ある程度そういうことも覚悟しなくてはならない、とも。そうはいっても多少の知識人的な素養がなければ一郎と膝をつきあわせて話すことは難しそうで二郎がひるむのは無理もないだろう。若い時代の漱石は気難しくてぴりぴりした空気を発散していたのか。
  一郎の知識人としての苦悩は、まずは科学文明の絶えざる発展を自分の頭のなかでなぞって繰り返すことにある。太古より文明はスピードアップを追究してきており現在もその追求をやめない。そのスピードは一郎にも嫌が応にも侵入してきて掻き乱す。たえずせかせかさせられるような感覚が、どこまでいってもついてくる。平常心を保つことができない、降りたいと思っても容易に降りられない。一郎を尊敬しその明敏さを認めるHは、一郎が馬鹿だからではなくその明敏さ故の苦悩だと解説する。私は知識人ではないので、文明のスピードと心中するまでに一体化させられる感覚はわかりようがないが、降りようとしても降りることがかなわないという苦痛は一種の精神病理として解釈すればわかる気がする。一郎は明治の知識人として時代のど真ん中にいるということだろうか。そして知識の累積のなかにいてへとへとに疲れた一郎は、当然別の場所に逃れてしまいたいと切実に願うようになる。ごく自然に思えるのは「考えない」ことの魅力だ。電車に乗り合わせた人を見ても、あるいは目の前の友人Hをみてもそのゆったりしたさまは、まるで仏のように眼に映るという。だが知識人である一郎に「考えない」ままで暮らすことはできない。そこで宗教的境地が俄然魅力を持って追究されることになる。
 

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
 兄さんは果たしてこういい出しました。その時兄さんの顔は、むしろ絶望の谷に赴く人のように見えました。
 「しかし宗教にはどうも這入れそうもない。死ぬのも未練に食い留められそうだ。なればまあ気違だな。しかし未来の僕はさて置いて、現在の僕は君正気なんだろうかな。もう既にどうかなっているんじゃないかしら。僕は怖くて堪らない」(p369)


  「気違」とは上記のように文明のスピードに一体化するまでに知識を吸収しつづけることの果てに見えてくるものだろう。その不安が「現在の僕は正気なんだろうか」と一郎をして言わしめる。そして宗教には這入れそうもないという一郎だが、結局は宗教的境地を求めることになる。ただしキリスト教とか仏教とかの個別の宗門に入信することを意味しない。それらを大いに参考にするらしいのだが、一郎が求めるのは個人としての心の安寧で、何かしら宗教的課題を背負って社会的実践に踏みこんだり、肉体を錬磨する類の修養に没頭することではない。旅先でどしゃ降りの雨の中へ歩き出す場面があるが、一郎の気儘さの表れという以上ではない。一郎が夢想するのは「考える」ことを放棄した果てに見えてくる自分の悠然とした姿だ。市井に生きようとすれば誰でもがせこせこして動き回ったり考えたりしなければならない。そこには一郎の理想郷はない。生まれつき決まり切ったコースを歩むと見える、たとえば下女のお貞さんでさえ一郎が羨ましがるようには落ち着いてばかりはいられないだろう。考え抜く場面もあるだろう。一郎はこの世とは隔絶された場所と時間にあこがれる。何もしなくてもよい、何も考えなくてもよい、一切合切を悠然と見下して受け入れられる世界で、この世の果てだ。当然、死が近接してくるが、それも黙って受け入れるのだという。「落ち着き」が最初から備わっていれば、そういう境遇を夢想することもごく自然にできるという。「自殺」するのではない。生にしがみつくのでもない。どちらでもかまわないという悠然たる態度の境遇を一郎は披瀝する。考えないことに憧れて考えを重ねていくと、考えなくても充足がつづく落ち着いた時間に自然に逢着する、そういうことだろうか。
  Hにたいして一郎は「神は自己だ」「僕は絶対だ」と激しく言い放つ。Hは一郎の得た「絶対」の境地について書く。
 

兄さんは純粋に心の落ち付きを得た人は、求めないでも自然にこの境地に入れるべきだといいます。一度この境界(きょうがい)に入れば天地も万有も、凡ての対象というものが悉くなくなって、唯自分だけが存在するのだといいます。そうしてその時の自分はあるともないとも片のつかないものだといいます。偉大なようなまた微細なようなものだといいます。何とも名の付けようのないものだといいます。即ち絶対だといいます。そうしてその絶対を経験している人が、俄然として半鐘の音を聞くとすると、その半鐘の音は即ち自分だというのです。言葉を換えて同じ意味を表すと、絶対即相対になるのだというのです、従って自分以外に物を置き他(ひと)を作って、苦しむ必要がなくなるし、また苦しめられる掛念も起らないというのです。
 「根本義は死んでも生きても同じ事にならなければ、どうしても安心は得られない。すべからく現代を超越すべしといった才人はとにかく、僕は是非とも生死(しょうじ)を超越しなければ駄目だと思う」
 兄さんは殆ど歯を喰いしばる勢いでこう言明しました。(p382~383)



  私は実感としてなら半分くらいはわかる気がする。ゆったりした気分につつまれてこのまま眠っても死んでもいい、そんな夢想に到達したことがあったからだ。しかし一郎(漱石)の絶対は、実感を土台にしつつももっと突きつめようとする姿勢がありありと感じられる。論理化して固定することで実感を永遠のもととしたいのだろうか。半鐘とは小さな釣り鐘をさすらしいが、そんな音をにわかに聴くと、私なら落ち着きを失う。ましてやそれを「自分」だなどとはとても受け入れられない。半鐘のような音がないのが私の夢想の前提であった。一郎にしてもこういう境地に一時的にたどり着けても、やはり長い時間踏みとどまることは不可能なので「歯を喰いしばる勢い」で強引に論理化、固定化を焦るのだろうか。自然の経過に任せれば、かかる実感は追憶にならざるをえないと思われるが、それだけでも一郎のえた成果であり、危機対処の拠り所となりうるのだろう。
  一郎は『彼岸過迄』の須永市藏の発展形だと思われる。彼もまた外側の現象を頭脳の材料や養分として取り入れなければ気が済まなかった。一郎が絶対即相対の見地から物事を見るということとは少しニュアンスがちがう気がするが、頭脳の肥大化に悩むという点で同質と思われる。そして市藏もまた気分転換のために単身で旅行することになって、旅先から叔父への連続的な便りで締めくくられて小説は終わるので、この『行人』と同じ終わり方である。目に飛び込んでくる風景の面白さがつづられるが、『行人』でも一郎は小さな花や薄の下を這い回る蟹に注目する。絶対や相対などという哲学にこだわらずに、小さな発見が純粋な興味深さを生み出してくれるならば、それはたいへん貴重ではないかと一郎は思い直すようで、これはHの助言でもある。
  ただ漱石は両者にたいして一時的な慰安を与える以上のことはしていない。知識を吸収しながら、あるいは知識に呑みこまれながら進まざるをえない知識人の立場に戻らざるをえない人として彫琢するように思える。女性の問題がなんら解決の端緒につかないのも両者に共通している。
(了)



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