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夏目漱石『行人』(1)

行人 (ワイド版岩波文庫)行人 (ワイド版岩波文庫)
(2009/01)
夏目 漱石

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  『彼岸過迄』と同様、なかなか読み進めなかった。現在の小説と比べて波乱が少ないからだが、これは語り手であり物語の進行役でもある二郎の人となりに深く関わっている。彼は常識的であることを心がける人で、また礼儀正しさを重んじつつ、できるだけ正直であろうとする人でもある。また男女関係には興味は大いにあるが、独身の身であり恋愛らしい恋愛をしたことがないようにうかがわれるので、自らの体験に照らして他人の恋愛の話を補足したり推論を提出することを控えるしかない。そういう二郎の人柄を周囲の人たちは信頼するのだが、彼のほうからからもっと考えを吐露してもらいたいという欲求も読み取れなくはない。また読者としても、対話する相手の話にもっと彼から突っ込みを入れてもらいたいという欲求も自然に高じてくるが、満たされない。家族や友人との関係を損ないたくないという二郎の用心深さが作用しているのだが、勝手を言えば、二郎も作者の漱石も抑制を効かせすぎる気がする。退屈さを感じさせるところだ。
  波乱の要素がないのではない。それを一番に予感させるのは二郎の兄の一郎である。明治時代には普通であった二世帯同居の家族で、既に職から身を引いた父に代わって彼は大学講師の職にあって一家の大黒柱である。長男でかつインテリであることからも彼は家族から一目置かれる存在だ。反面彼は陰鬱で「神経衰弱」の気があってその発散する空気はともすれば一家の人々を悩ますこともしばしばである。また一郎と妻のお直は周囲にあからさまに知られるくらいに不仲で、このことも家族は無論、本人二人にとっても悩みの種となっている。そのことについて二郎は母や一郎本人から相談を受ける。とりわけ一郎はお直が二郎を好きではないのかと疑って、それを二郎に告げてから、お直と二郎二人で観光見物をするように勧める。父母を交えた一郎夫妻と二郎がいっしょに和歌浦に旅行に出かけたさいのことで、そうすることでお直の気持ちを確かめるように一郎は二郎に依頼する。二郎は気が進まないが引き下がる気配のない兄に押されて、また長男という権威のせいでもあるのか、この要求を受け入れて和歌山市内を二人で見物することになる。ところが折からの嵐のせいで日帰りの予定のはずがかなわなくなって二人は市内の旅館の一室で宿泊せざるをえなくなる。以前読んだときほどははらはらしないが、漱石の小説のうえでは艶めかしさはあるのだろう。二郎は一郎ほどにはお直を嫌ってはいないどころか、嫂(あによめ)は女性として眩しい存在である。同じ部屋に泊まるのだから情痴の描写を目的にする小説ならここで一気に肉体関係ができあがってしまうにちがいないが、そうはならない。二郎は常識家である。ここでは言葉数は多くはないが、お直は夫婦関係について思いを吐露する。
  自分はインテリで高尚な夫に比べると「腑抜け」であると自嘲する。夫を尊敬する気持ち、ついて行きたい気持ちは失ってはいないが、夫婦関係は幸福ではない。ときどき死にたくなることがあって、それも波にさらわれたり雷に打たれるような一気な派手な死にざまがいいとまで言って、二郎に衝撃を与える。正確な再現ではないが大意はこんなところだ。また夫一郎の悪口はついに口には出さない。苦悩は鬱積しているが、今すぐにどうこうなるのでもないらしいことを二郎は知るが、それで安心したところで、二人の関係を修復しようなどという大それた意図をにわかに抱くのでもない。立ち止まりやがては距離を置くしかないのだろう。二郎は嫂に同情を覚えるが、それによって兄一郎を憎むことをはじめるのはなく、二人にたいしてともに同情を惜しまない。だが二人の対話はお互いの遠慮をいくぶんかは超えているが、もっと掘り下げられるのではないかと期待するとそこまでは進まない。それが二郎の美質であるのだがもどかしい。とりわけお直の心情が手に取るようには読者にはわからない気がする。喉に魚の骨が刺さったようなもどかしい気にさせられる。一郎のお直にたいする気持ちの一端は第四章の「塵労」において展望が開けてくるが、お直の内面には最後まで切り込めてはいないと思える。これは二郎が独身者で女性を知らないらしいという設定にのみよるのではなく、漱石の実生活における女性への接し方が反映したものかもしれないと勘ぐりたくなる。漱石は女性の「好ましい像」を作り上げることができない人だったかもしれない。
  一郎夫妻は危機を孕みつつも、小説のうえでは破局を迎えることなく夫婦関係は維持される。二郎はやがて東京の実家から出て一人暮らしをはじめるが、そこへお直が訪ねてくる場面もおもしろい。あまり実家に寄りつかなくなった二郎の様子を外出のついでに見に来る。そこには他の家族の二郎の近況を知りたいという気持ちを代行する面が表向きはあるにしても、和歌山で以前よりも親しくなったお直の義理の弟への気持ちもふくまれているものとして読んだ。その気持ちを二郎自身も知っているらしいのだが、そこはいたずらに気を緩める人では二郎はない。火鉢に向かい合わせに座って手をかざすとお直との距離が随分と近づくので、二郎は不自然なまでに後ろに身をそらせてお直からとおざかろうとする。お直も苦笑する。
  一郎夫妻の問題だけではない。「友だち」「兄」「帰ってから」の三章は二郎の目から見た、男女間の関係が主に結婚という形で形成されていく大きな時間の流れが描かれる。かつて長野家(一郎、二郎の実家)の書生をしていて現在は大阪で暮らす岡田お兼夫妻と、今また結婚の話が進んでいる最中の現在の下女のお貞さん、また離婚して知的障害者となった娘さんのエピソードなどがある。人は一人で老いていくのが時間の経過ではない。結婚しようがしまいが人間関係を新たにつくり、環境をときには激しいくらいに変えて生きる、それが時間の流れというもので、二郎も無縁ではありえないという誰もが納得できる人生観が全体に流れている。その全体を否定しないまでもやはり一郎の思想は鋭利で、自然な愛情に基づいた男女関係はときには通常の婚姻関係をも破壊するが、それでもかまわないとする。
  二郎は一郎からなるべくならとおざかりたいと思う。その鋭利さを尊敬しつつも理屈のうえで太刀打ちできないという引け目があり、ことによると高飛車な非難を浴びないともかぎらないし、兄を説得しようなどという野望は持ち合わせていない。お直にしても夫を扱いかねている。「塵労」において明らかになるが打擲されても無抵抗に耐えるばかりだ。そこで大部分の記述では謎めいたところが残る一郎が終章「塵労」でクローズアップされるのだが、これは夫婦間の問題の解決にもならないし、お直の心情が詳しく描かれるのでもない。また二郎の語りとはまったく別に一郎という自己人格を息堰切ったように語るのだから、前三章との関連性は薄いともいえる。三章だけでも小説としての世界は成立する。だがやはり「塵労」は一郎あるいは漱石の肉体を潜り抜けてきた哲学を十二分に感得させて読みごたえがある。

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