大洋ボート

フォークナー『響きと怒り』(4)

  自殺を決意してからクエンティンは、ハーヴァード大学の寮を抜けだしてボストンの街やら郊外やらを電車を乗り継いだり歩いたりして移動する。水死を確実にするために足につける鉄ごてを買い、それをここと決めた橋のたもとにおいたあとは何のあてもなくさまよう。パン屋にはいってパンを購入すると、そこにイタリア移民の少女がいる。彼は少女のためにパンを買って与えた後に、なおつきまとう少女を自宅に送り届けようとするが、彼女は英語が話せない。仕方なくクエンティンは少女を連れ歩いてあちこち訪ね歩くことになる。そうしながら彼は、キャディとの思い出に何度も行きつ戻りつする。とりわけ、キャディの「処女喪失」を彼が知ってから間もない頃と思われるが、雨の中で二人が言い争う場面は比類なくうつくしい。

ナタリーみたいなきたならしい子とキスしたんじゃないわ 雨が降っていて 屋根の雨音が 天井が高くていい匂いのするがらんとした納屋に ささやきを響かせるのが聞こえていた。
  ここかい? 彼女にさわりながら 
  そこじゃない
  ここかい? どしゃ降りではなかったけど 僕たちには屋根の雨音しか聞こえなくなって それが僕の動悸の音なのかそれとも彼女なのか 
  あの子あたしをハシゴから突き落として 逃げてっちゃったのよ あたしをおいて キャディがよ
  キャディが逃げたとき 痛かったのはここかい ここかい
  ああん
(p260~261)

 
  キャディの処女喪失を知ってからクエンティンは乱れる。にわかに、おそらくはそれまでつくったことのないガールフレンドをつくって遊ぼうとするのだ。その相手がナタリーという女性で、彼はナタリーを家の敷地内の納屋に誘って遊んだ。キャディが彼女を「きたならしい」と呼ぶのは身持ちの悪い女性と見なすからであろう。納屋に二人がいるところをキャディが見つけて詳細は不明だが、やがて二人は喧嘩になり、キャディがナタリーをハシゴから突き落とす事態が生じた。キャディが消えた後、二人は納屋で抱き合う。ナタリーの痛みを気遣いながら「座りながらダンス」をするのだ。クエンティンはおそらくは童貞でナタリーの肉体を強く意識している。引用した文は例によって時制が錯綜している。「ナタリーみたいな」以下はキャディとの会話、「ここかい? 彼女にさわりながら」以下はナタリーとの会話だ。クエンティンはだがナタリーの肉体をそれ以上に開くことができない。接触したということだけで大げさに考えている。ナタリーにたいして格別の気持ちはなく、ナタリーをダシにしたキャディへのあてつけ以上には発展しない、また触れあったということに歯を食いしばるような嫌悪感がにじみでる。ふたたびキャディが納屋にやってきてナタリーとの間に短いやりとりがあった後、ナタリーはにわかに激しく降りだした雨のなかを走って姿を消す。キャディと二人きりになったクエンティンだが、隣にある豚の囲いのなかの窪地の泥水に身体をぶつけるようにひたす。それは悪臭がして、雨と泥水でずぶ濡れになった全身をキャディに押しつけする。憎々しげなふりをする、あてつけだ。俺はおまえと同じように汚れてしまった、それもおまえのせいだ、どうしてくれるんだ、と言いたいのだ。無論、妹よ、おまえが好きで好きでたまらないという気持ちが基底にある。だがキャディは彼の気持ちを痛切に普段から理解しながらも冷静で、自分の行く末がどうこうというよりも混乱するクエンティンを落ち着かせようとする。妹というよりも母のようだ。

泥は雨よりも暖かく 匂いがひどかった 彼女は背中を向けていて 僕は彼女の前にまわった 僕がなにをしていたのかわかるかい 彼女は背中を向け 僕は前にまわった 雨が泥に染み込み 彼女の服にも染み込んでボディスが肌に張りついた ひどい匂いだった 僕はあの子を抱きしめていたのさ そんなことをしてたんだよ。彼女は背中を向け 僕は彼女の前にまわった。いいかい 僕はあの子を抱きしめてたんだ。
  あんたがなにをしようと 知ったことじゃない
  知ったことじゃないって そうかい じゃあ僕がそうさせて 知ったことにさせてやるよ。彼女は僕の手をたたいて払いのけた 僕はもう一方の手で彼女に泥をなすりつけた 彼女が濡れた手でぶっても僕はなにも感じなかった 僕は両足についた泥を拭き取って 背中を向けようとする彼女の濡れた硬いからだになすりつけた 彼女が指をひろげて僕の顔につかみかかるのが聞こえたけれど それを感じることはできなかった やがて雨が唇に甘く感じられるようになっただけだった
(p265~266)


  泥をなすりつけるのはいじめではなく、クエンティンは自分の痛切な心をキャディに汲み取ってもらいたい。心をなすりつけるように泥をなすりつける、そしてキャディの肉体そのものも愛しくて、じゃれ合いの気配に支配されかかる。冷静なキャディはされるがままではないが半分以上はクエンティンの乱暴を受け入れる。クエンティンはキャディに冷たくあしらわれたのではないことを知って束の間息を継ぐのだろうか。「雨が唇に甘く感じられるようになった」は彼の短い、貴重な息継ぎのようだ。だが甘さはとろけさせるほどではない。二人の言い争いと抱擁にならない抱擁は雨のなかでさらにつづく。草原で雨に打たれ、泥を洗い流すために小川に身体をつける。そして先に記したようにクエンティンはキャディに逃避行を懇願する。二人が近親相姦をしたと父に告げることによって。

そうしたら僕たちは逃げていかなくちゃいけないんだ 指弾と恐怖と清らかな炎の中を 僕たちはしたんだって おまえに言わせてやるぞ おまえよりも僕のほうが強いんだからな おまえにわからせてやるぞ 僕たちがしたんだってことを おまえはあいつらだと思っていただろうけど あれは僕だったんだ(p287)


  どんな罰を受けたとしてもキャディ、君がいれば僕にとっては清らかだというぎりぎりの思いが吐露されている。そして彼は力ずくでもその夢を実現したいと脅迫する。雨の中でナイフをキャディの喉に突きつけたりもする。だができない。ナタリーにできなかったと同じく、言葉を実行することができない。キャディの身体をひらくことも殺すこともできないのだ。あれこれと必死のポーズをとりながら、それを押しつけることによって彼は遠くへ行こうとするキャディを引き止めたい。変わってしまったキャディに「近親相姦」を仮初めにも受け入れてもらってさらに変わってもらいたいのだ。だがキャディは変わらない。クエンティンにたいする同情と感謝とすまない気持ちでいっぱいなのだが、彼女は自分は死んでしまったと言う。末っ子ベンジーの世話と兄クエンティンのひたすらな思いを受け止めることにキャディは疲労困憊したのだ。そこで家の外の異性という逃げ道を選んだ。男たちを愛してはいないという答えは、クエンティンを慰めるつもりだろうか。クエンティンはほっとするのかもしれないが、キャディはクエンティンみずからを葬り去るようなクエンティンの申し入れは無論受け入れられない。一方ではコンプソン家から出て行く決意も動かない。昔日のキャディはたしかに「死んだ」のだ。
  キャディは感情の高まりよって自然に、雨のなかで抱き合いながらクエンティンに胸や喉をさわらせて動悸を聞かせる。クエンティンはそれによって、キャディが懇願を受け入れないものの、みずからへの同情と性愛にきわめて近い熱情が発露されたことを理解する。満足はできないもののクエンティンは当惑する。ここへきて、キャディはクエンティンのされるがままになろうとする気配が生まれる。クエンティンの情熱にあらためて押されるのだ。強引にクエンティンが肉体関係を迫れば屈服するかもしれないし、無理心中も受け入れるかもしれない。だがそれは兄の強い願いに席を譲ろうと、自分が無になろうとするからで、自分から自発的にクエンティンと同じ志向をもつのではない。とどのつまり、どうにでもしてくれという姿勢だ。キャディのそういう姿勢をクエンティンは本能的に理解するのだろうか。これは意見の対立ではない。キャディが彼に下駄を預け、預けられたことを彼は知るのだ。ここはほんとうにうつくしい。兄妹の愛が頂点に達するところだ。だが、どうにでもしてくれといわれても、かえってどうにもできるものではない。クエンティンにとってはこの瞬間のキャディこそがいちばんうつくしいのだから、貴重なのだから壊したくない。だが壊したい思いも燻っている。クエンティンは壁にぶちあたる。キャディへの同情もさらに生まれるようで、それ以上はどうしても踏みこめない。放置すれば、キャディの別離の決意はふたたび揺るがなくなることも承知のうえで。
  クエンティンは妹の肉体をどうこうするという以上に、広い意味での純潔意識の持ち主で、父の言葉を借りれば「美徳の審判官」であり、妹キャディはベンジーの世話をしたり、クエンティンの気持ちを暗々裡に理解するという意味では「美徳の実践者」であったと私は見る。キャディの行いを普段から目にすることによってもクエンティンの純潔意識は高められたのだ。そしてそのとき純潔意識は安定していて、さほど厄介でもなく意識もされなかった。そしてまた二人の純潔意識はほかならぬ父の教えを受け継いだのでもあったであろう。純潔意識とはまた弱者や善意者にたいする非暴力主義も内包するのではないか。ドールトン・エイムズを口ほどには憎めなかったのも、彼が発散する空気が悪人じみたものだはなかったからだし、逆にジェラルド・ブランドという大学での知人にたいしてはクエンティンが錯乱していた最中でもあったが、その金満ぶりと派手な女性関係をはげしく侮蔑して殴りかかったのだ。そういうクエンティンだからこそキャディを辱めることはできなかった。彼は根っからやさしい人で、キャディをいたわったことにはなるが、彼のなかで彼の予想を超えて強固になっていた純潔意識が行為の「邪魔」をしたともとれる。キャディに無理強いなことをしなかったのはよかった。だが、このころから純潔意識が、というよりもそれを中心にした彼の意識全体が、彼にとっての逃れがたい重苦しい牢獄のような存在に転化する。キャディは去っていって、実現の当てのない純潔意識だけがクエンティンにのこされた。それを象徴するのがキャディの身体にふりかかり彼の鼻孔に絶えず流入してくるスイカズラの匂いだ。
  
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