大洋ボート

フォークナー『響きと怒り』(3)

  

我々はわずかのあいだ目を覚ましておいて 悪がなされるのを見届けなくてはならないのだ かならずしも目の前で見るというわけではないが すると僕が 勇気のある男ならわずかのあいだなんか必要ありませんよ するとお父さんが それをすることが勇気だと思っているのかね すると僕がええそうです お父さんはどうなんです するとお父さんが それを勇気と考えようと考えまいと 人は誰もがみずからの美徳の審判官だからね それをする行為それ自体より どんな行為より これは大切なことなのだよ そうでないと真面目に生きることができないからね(中略)するとお父さんが おまえは人間のあたりまえの愚行を恐怖へと昇華し 真実をもってそれを洗い清めたいと思ったのだろう(p340)


  悪や愚行といわれるのはキャディの性行為を指す。勇気とはこの場合自殺であるようだ。困難な行動への跳躍を「勇気」として自己評価する青年らしさを父は戒めるのだ。「勇気」は酔わせる作用がある。だが私には父が息子を全面否定しているようには読みたくない。言葉の表面では教え諭すばかりだが、うつくしくありたいと痛切に願う息子の心情は汲みあげられていると思う。また息子が自殺など決してしないだろうという予断は、息子への信頼があるからと思える。悪はこの場合ありふれていて自然なこととされ、そのことにやがて息子も気がつくであろうというのだろう。

だがおまえは自分自身の心の中にあるものがわかっていないのだよ 一般的な真実の一部分なのだが すべての人間の顔を ベンジーの顔すらも曇らせるあの自然な出来事とその原因の連鎖というものがわかっていないのだ おまえは有限性について考えようとしないで 理想ばかりを 一時的な精神状態が肉体の上に立って均衡を保ちながら 精神自身とそれが完全には捨てきれない肉体の両方を意識しているような理想ばかりを考えているのだよ だからおまえは死ぬことすらないだろう すると僕が 一時的ですって するとお父さんが おまえはいつかこのことがいまのように こんなにおまえを苦しめなくなるだろうと考えることに耐えられないのだ おまえは言ってみればこの経験が顔は少しも年を取らないのに 髪の毛が一晩で真っ白になってしまうような経験だとばかり考えているようだね こういう状況では自殺などしないものだ(p341~342)


  クエンティンの興奮と熱は早晩覚めるだろうと父は予想する。十代の女が性関係を持ち、やがてまもなく結婚する、なるほどそれほどに異常なことではないのだ。だがクエンティンにとってはキャディが、またキャディを愛した自分自身があまりにも愛しくて、反面それと同じくらい愚かしくてどうしようもない。悶え苦しむのだ。私のような読者には後者のクエンティンの自己認識がなかなかわからず、ただ彼の志向の美しさばかりに気を取られてしまうのだが。
  父の認識は正しいし、息子に生きろと説得するのは親としては当たり前だといえる。私も父の立場だから子供には自殺などせずに生きてもらいたいと言う。ただし、私はうつろなのかもしれないが、人生は(「時間」がではなく)それほど悪いことや不幸ばかりではないと言うだろう。コンプソン氏のように立派には語れないに決まっているが。だが一方で父は息子の妹への愛と苦しみと羞恥を正確に、どれだけの深さとしてつかんだのだろうか。この疑念も何度も読むうちに気づかされる。どうも父と息子にはズレがあるように思えてくる。
  それといまひとつの視点も浮かんでくる。父の言うように、認識を正せば「錯覚の愛」から覚めるのだろうか。そして人は正しさを指標にして生きるべきなのか。自己矛盾を書くのではなく、残念ながら人は必ずしもそうではないのだ。ドストエフスキー『地下室の手記』の主人公が言うように、人は正しさをもとめるよりも欲望第一に生きる場合がはるかに多いのだ。そしてクエンティンの欲望はもはや砕け散ってしまって実現を望むべくもない欲望へのさらなる執着としてあるのだ。
  キャディが処女喪失した時以来クエンティンの彼女に対する愛情はより深まった。傷つき失望もしたが、自分でも予想しないほどに。恣意的に深めるのではなく、ふりかえればふりかえるほどクエンティンのキャディへの愛は自然に強固になる、それゆえ破滅的になる。無論、結婚してクエンティンから遠ざかろうとする彼女に逃避行を懇願するのだから絶望的に決まっているが、それだからこそものすごく純粋化する。また、後戻り不能なほど愚劣化するのだ。クエンティンの立場からすれば、彼はいてもたってもいられないのだが、キャディに近親相姦を言い寄ったことで不幸から逃れようとしたのではない、自暴自棄的にキャディとともに不幸の谷底へ落ちたかった。私は最初、クエンティンは不幸な追憶のなかから美をとりだしてしがみつこうとするのだと思った。だが、どす黒いほどの羞恥心が全体をおおって美を押し殺してしまうのだ。美がわずかに上回ると最初は思ったが逆だ。美しいことに変わりはないものの。「おまえはいつかこのことがいまのように こんなにおまえを苦しめなくなるだろうと考えることに耐えられないのだ」父のこの指摘は図星だろうか。外れてはいないだろう。だが私には違和感がぬぐえない。父は息子がみずからの苦しみを過大視しているととる。難解であるが、むしろクエンティンは回復不可能なほど残骸と化したみずからをもてあましていてどうしようもない、そういう苦しみから逃れようとして自殺を目指すと見たほうが私には自然に映る。だが、どちらの認識にせよそういう認識を忘れてしまうほどに、クエンティンにとってのキャディの思い出は甘くも苦しい。
  私はクエンティンのような青年の純潔意識、性にたいする潔癖さをともすれば忘れてしまう。テレビをつければ無難な笑いにあふれているし、新聞の三面記事は殺人などの殺伐とした光景を押しつけてくる。社会とはそういうものかもしれない、自分にも部分的にそれらが混入しているのかもしれないと、怠惰にあるいはぼんやりと考えがちであるが、日頃のそういう自分からみると彼がとらえられたピュアな意識は随分ととおい気がする。だからこそ、分け入ってみれば衝撃的だ。

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