大洋ボート

フォークナー『響きと怒り』(2)

  第一章、第二章においては翻訳文ではゴシック体が多く用いられる。急な場面転換や一見無関係な独白を明示するためだ。(用いないこともある)原文ではイタリア字体が用いられているそうだ。

 (前略)というのも、ただ地獄に行くだけのことだったら、もしそれだけでいいのだったら。これで終わり、というふうに、ものごとがそれだけで終われるものなら。彼女と僕以外、そこに誰もいないなら。もしあまりにも恐ろしくて、僕たち二人を残してみんな地獄から逃げだしてしまうような、そんな恐ろしいことが僕たちにできさえしていたら。僕は近親相姦を犯しました と僕は言った お父さんあれは僕だったんです ドールトン・エイムズじゃなかったんです だからあいつが ドールトン・エイムズ。ドールトン・エイムズ。ドールトン・エイムズ。あいつがピストルを僕の手の中に置いたとき、僕はやらなかった。だからこそやらなかったのだ。もしやっていたら、あいつも一緒に来て、彼女もいて僕もいるということになってしまう。ドールトン・エイムズ。ドールトン・エイムズ。ドールトン・エイムズ。そんな恐ろしいことが僕たちにできさえすれば するとお父さんが それも悲しいところなのだよ 人間はそれほど恐ろしいことなどできやしないのだ ものすごく恐ろしいことだって そもそもできやしないのだよ きょう恐ろしく思えたことも あしたになれば思い出すことすらできないのだ そこで僕が 一切のものからのがれることはできますよ するとお父さんは ほう おまえにそれができるのかね(p157~158)



  性の異なる兄弟姉妹のあいだでは性的禁制が自然にはたらくといわれている。ところがここに書かれているドールトン・エイムズをはじめとしてキャディは十代において複数の異性と性的関係をもったようで、それがあからさまになってからクエンティンににわかに近親相姦願望が芽ばえた。彼はキャディを独占したかった。「純潔意識」とは彼のキャディにたいする普段からの姿勢ではなかったか。兄妹間の自然に見える禁制にかくれて、キャディにたいする「純潔意識」が自分でも知らないほど強固にあった。プトニックラヴと呼ばれる質のものだ。そして同じ質のものを無意識のうちにキャディにも求めていた。自分がそうだからたぶんキャディにもそうなってもらいたいと。キャディはクエンティンのそういう思いを裏切ったのだが、クエンティンは追いつめられたようにキャディをますます好きになってしまうのだ。そしてまたキャディの「不純」という罪を、より大きな近親姦という罪を自らが背負うことによって小さくしよう、無くしてしまおうとするのだ。これはクエンティンが純潔意識を捨ててしまったのではなく、その逆で、純潔な愛をさらに持続させようとして少し身の毛のよだつような絶望的な夢を描いたのだ。勿論こわごわで、背伸びする気配が十分にある。普通いくら仲の良い兄妹同士であっても、どちらかが別の異性と仲良くなれば諦めてしまうものだし、自分も代替としての別の異性をもとめるものだろうが、クエンティンはそうしなかった。
  また書き漏らしてはならないことがある。引用文にはないが、キャディは妊娠してしまう。相手はたぶんドールトン・エイムズという男で、この事実をキャディはクエンティンにしか打ち明けない。キャディの「不純」は家族全員が知るところとなるが、妊娠は知られないままだ。その事実を隠すためにキャディは急いで結婚することになるが、こんな滅茶苦茶なことはない。そして父とのなかば想像上の会話においてもクエンティンは最後まで妊娠の事実を父にはばらさない。キャディを護るのだ。(キャディの妊娠を知ったとすれば、クエンティンの近親姦願望にたいする父の評価もややちがったかもしれない)
  「僕は近親相姦を犯しました」とはクエンティンは父に実際に言ったのだろうか。第二章全体を見れば言ったと見なしたほうが自然だが、私は想像の世界だと思いたい誘惑を捨てきれない。クエンティンと父との対話は普段からあったと見て、そこから汲み取られた父の思想にたいして挑発を試みているとも見たいのだ。「人間はそれほど恐ろしいことなどできやしないのだ」とは父のそれまでの人生経験や人間観察が元になっているのだろう。ただ父の歩んできた道のりについてはこの小説ではまったく触れられてはいないのだが。それに父はクエンティンが小心者であることも見抜いているように見える。ドールトン・エイムズとの対決の場面は後に出てくるが、クエンティンは最初から彼を「殺さない」という明確な意志があったのではなく、もしかしたら危害を加えるかもしれない、殺すかもしれないという可能性を心に秘めていたように読める。結果がどちらに傾くにせよ曖昧でこわごわだった。だが相手の腕っ節が上回ったためににべもなく撃退されて終わるのだ。父の普段からの彼に対する観察が「おまえにそれができるのかね」と言わしめる。「それ」とは訳注によれば彼の自殺願望を指すが、これが父と世界に対するクエンティンの最後のカードである。
  引用した個所につづいて父は、青春の煩悶など大したことはない、宗教や誇りは大した役にはたたない、そこに救いをもとめることはできない、という。「のがれられるとしたら」「何も助けにならないと悟ったときではなくて 自分にはなんの助けも必要ではないと悟ったときなのだよ」と。不幸を解消しようとしてもできないから不幸はありつづけるということだろうか。別の個所では、不幸の具体性は不幸のほうが飽きてきてしだいに記憶がうすれるが、時間の全体が不幸と化すという。「これで終わり」と感じたときから、そういう意味でのほんとうの時間が始まるともいう。また、不幸であっても死ぬよりも生きている方がましだ、生きている人間の間に不幸の差はあまりない、ともいう。人間は平等にできているということだろう。
  フォークナーはクエンティンに父の語りを回想させることで、両者の思想の争闘を描きだす。父はじりじりとクエンティンを追いつめる感がある。クエンティンの小心者であることを揶揄するのだが、それだけではない。牧師という職業にありながら、宗教は人を幸福にしうるほどの力をもたないという。そこには長い年月による経験ばかりではなく、体験に基づいた観察眼が内蔵されている気がする。だがクエンティンの自責意識からくる「近親相姦願望」という自己処罰の欲求に、彼はひそかに共感する部分があるのではないか。キャディを愛しあこがれることがそこには見えるからだ。これはうつくしい。審美眼(美とはこの場合倫理的、宗教的要素もふくむ)として好ましいのだ。審美眼はだれにとっても大切だと父は言うが、それは宗教的意識に近接するものではないか。それをないがしろにするのではなく、批判は別のところにある。父コンプソンは不幸の意識を行為によって変換することの不可能を説いている。行為、たとえば自己処罰によって不幸から脱出することの不可能なことを。たとえその行為が宗教的意識にもとづいていたとしても、だ。不幸という苦い認識をもちつづけろ!ということだろう。もうひとつある。クエンティンがあまりに純潔を尊重すること、その結果キャディが性交渉をもったことへの彼の過度な失望を戒める。「純潔」など自然に反することで、いずれ破られるもので、たいして気にするものではないという。これはクエンティンの認識の偏りを諭すのだ。
  
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