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フォークナー『響きと怒り』(1)

響きと怒り (上) (岩波文庫)響きと怒り (上) (岩波文庫)
(2007/01)
フォークナー

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響きと怒り (下) (岩波文庫)響きと怒り (下) (岩波文庫)
(2007/01)
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  「コンプソン家の没落」を描くといわれる長編小説だが、主人公はその家の子供たちである。年長順に列記するとクエンティン、キャディ(キャンダス)、ジェイソン、ベンジー(ベンジャミン)となり、ベンジーが三十三歳となる一九二八年現在で物語は終わる。クエンティンはハーヴァード大学に入学して数年後に自殺、キャディは十代で結婚したものの出産ののちに離婚し、その子を実家コンプソン家に預けてから失踪する。もっとも連絡は途絶えたことはなかったようで、娘への金銭的な援助を時々はしていた。母やジェイソンが保守的なため結婚相手以外の子(私生児)を生んだキャディを許せなかったと思われる。末っ子のベンジーは生まれて以来ずっと知的障害者で、泣いたり大声を出したりするのみで話すことができない。また日常生活も着替えや食事など援助がなければできない。そういうことで、コンプソン家を引き継ぐべき人はジェイソンをおいては他にはいない事態になる。父もクエンティンの自殺の何年か後に死去しているからだ。母は結婚以来病気がちでベッドに伏せていることが多く、ベンジーの泣き叫ぶ声に苛立ちを繰りかえす場面が多い。父の職業は何か。これがなかなかわからない。第二章においてクエンティンの友人の口から「会衆派教会の牧師」と第三者に告げられるのみで、その仕事ぶりはまったく描かれない。作者フォークナーによって不要だと切り捨てられたのだろう。そのかわり、第二章においてはクエンティンの回想と幻想と想像のなかで、父コンプソンの虚無主義的思想はふんだんに語られる。また同じく第二章においてクエンティンによって、コンプソン家の先祖は三人の将軍と一人の知事を輩出した由緒ある家系だと言われる。その通りというべきか、コンプソン家は屋敷のまわりに広大な土地を所有していた。それがクエンティンの名門ハーヴァード大学入学の資金を捻出するために、屋敷周辺の土地が売却され、「現在」においてはすぐ隣がゴルフ場になってしまっている。また最後のコンプソン家の主人であるジェイソンは農機具販売やら株式投資をやって糊口をしのいでいるのだから父や先祖と比べると小粒になっってしまった。「没落」といわれても仕方のないところだろう。
  最初からこまごましたことを書いたが、この小説の白眉は何といっても第二章にある。クエンティンの妹キャディに対する偉大ともいえるふりそそぐような愛情とその挫折が読者の胸を痛切に撃つ。クエンティンはずっとキャディが好きだった。キャディもそれを知っていたようだ。それにキャディはベンジーの世話も一家のなかでは一番に骨を折った。ベンジーもキャディに一番なついていたのだ。コンプソン家に雇われて敷地内に家屋ももっているディルシーという女性を中心とする一家もベンジーの世話をしたが、身内としてはキャディに勝る者はいなかった。だがキャディはベンジーの世話、それにクエンティンの気持ちやらが年を経るにしたがって耐えがたい負担に感じられてきて、逃亡と享楽の欲求に打ち負かされる。十代の半ばから異性との交際を繰りひろげることになる。そして結婚直前の時期に妊娠に気づかされる。そのことを知って「純潔」にこだわるクエンティンはキャディをなじるが、キャディへの愛情はそこへきてむしろ沸騰する。結婚などやめてベンジーも連れて三人で逃亡しようとキャディに提案するのだ。さらに二人が近親相姦をしたことにして罪をすべて自分が引き受けようとの敢然とした決意も打ち明ける。その嘘の告白を父にすれば公然とした「ほんとう」になる……。だがキャディはクエンティンのかかる破天荒な要求を受け入れられない。クエンティンに困惑とふるえるような喜びを見いだしながらも、やはり自分一人が自分の蒔いた種を始末しなければという思い、兄を巻き込むことはできないという思いで身売りするように結婚を急ぐのだ。クエンティンはキャディに結婚をやめさせようとする。その以前にはキャディの交際相手に決闘のまねごとを仕掛ける。そのことごとくの失敗による挫折感がクエンティンを落ちこませ、自虐にひたらせ、やがて自殺へと至る思考経路(記憶や想像や幻想)がたいへん粘り強く描きだされる。学生寮を出て大学のある町を電車に乗ったり歩いたりしながら、また知人や知らない人との束の間の交流も交えながら、彼は過去を心の中で繰りかえす。過去の同じ場面や言葉が少しずつ変化をつけて、また細部があらたに付け加えられて何回も出てくる。キャディとの関係という単一の出来事のなかに世界の謎がすべて詰めこまれているようにクエンティンは挑戦し、解きほぐそうとする。まさに現在も過去の渦中にあるように切羽詰まった感情と思想が吐き出され、私たちは圧倒される。堂々めぐりではなく、語り尽くされることによって何回も確認することによってクエンティンは少しずつ死との距離を縮めていく。螺旋的前進とでもいうべきか。
  第二章に比べて第一章はたいへん読みづらい。知的障害者ベンジーの口を借りて、彼の周辺に起こったコンプソン家の約三〇年の出来事を描きだすのだが、「連想」によって時制が無秩序に変換する。しかも時制は二つや三つではなくかなりの数に上り、それがいつの時代でどんな出来事が背後にあるのか、ベンジーの「ボク」という一人称形式で語られるから極端に省略されている。障害者にとって今日と昨日と明日は、十年前と今日は区別のつかないものか。読むかぎりは、ベンジーはほとんどの時間泣いたり声を出したりしている、つまり同じ状態にあるように見えて、たとえば川遊びをしたという目の前の出来事からの連想によって、同じ川遊びの別の時代に紛れこむ。障害者とは感覚による記憶は十分にありながらも、それらと現在の区別がつかず、過去も現在と同一視されるのか。私には関連する知識がない。ただコンプソン家の子供たちに起こった重要な出来事は、このベンジーの語りによってほとんど網羅されていて、カメラの役割を果たしている。
  第一章のこのような時制のめまぐるしい変化だけでも本作が難解という評判をとるに十分で、翻訳者による親切丁寧な訳注がなければ私などとても読み進めない。もっとも第二章で、クエンティンによって第一章のさまざまな出来事がすべてではないがふりかえられることによって読者ははじめてその意味が呑みこめたり、解釈をあらたにすることができる。ベンジーがキャディを好きなことも、たんに「なつく」という以上の気持ちであったことも第二章によって私は知らされた気がする。知的障害者にとって人々を区別してたった一人の人を「好き」になるということがありうるのか、実際上、また専門家によってどうとらえられるのか、私は何も知らないが、少なくともここで描かれた障害者ベンジーは、キャディやクエンティンによってキャディを愛する人として受け止められている。そして、ベンジーをそう思いなすことがキャディやクエンティンにとっての人生上の大きな負荷となり、特にキャディのその後の人生上の歩みに大きい影響を与えずにはおかなかった。訳注に頼らないとわかりづらいが、ベンジーは十代になってから屋敷の正門の前を歩く若い女性をあこがれのまなざしで眺めることがあった、そしてあるときそのなかの一人に襲いかかった。性欲の本能がそうさせたのだろう、それが契機となって彼は去勢手術を施されたという。そうした彼の本能的欲望とキャディとの関係は何も書かれていないが、何もなかったとは考えにくく、キャディをしてベンジーを同情させると同時に恐れさせたことも読者は想像せざるをえない。
  そして第三章、四章。これはまるで抜け殻の印象だ。キャディとクエンティンという小説の生命ともいうべき存在がなくなったコンプソン家で次男ジェイソンがえらそうにする。キャディの娘クエンティン(長男と同じ名前で、キャディが名付けたが、この名前の紛らわしさもこの小説の特徴で、他にもある。キャディの結婚相手はハーヴァード大学出身のハーバート・ヘッド、ベンジーの最初の名はモーリーで伯父と同名、さらにゴルフ場の「キャディ」も登場する)は母の血を引いたからか十代から異性関係がはげしく、これを母から頼まれたジェイソンが監視し、キャディが所有していた自動車を使って追いかけまわすというのが主なストーリーだ。またクエンティンには母キャディのようなベンジーに対する愛情など欠片もなく「キチガイ」と呼んではばからない。第二章と比べると緊迫感に欠けるが、この「純粋」さがまるでなくて荒涼とした空気がフォークナーの目に映ったアメリカ南部の現実ということになるのかもしれない。
  第二章を中心にもう少し立ち入ってみたい。

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