大洋ボート

感覚と記憶

 感覚がまず先にある。外界と自分、自分と自分との関係性を整理するために知識を動員して当てはめることになるが、それに先だって感覚(五感)がある。感覚によってまずは整理すべき材料が与えられる。だが関係性を整理し明瞭化することに不意に自信をなくしたならば、あるいはそれまで行ってきた整理の仕方に疑念を抱いたとしたら、どうすればよいのか。それは、それまで頻繁に使用してきた自己内の既存の言葉の秩序立てられた群れに不信感を抱くことにもなるのだと思うが、さりとてすぐさま別の系統の言葉にも移行することもできない。そんなときどうすればいいのか。

 安易に整理しないこと、判断しないことだ。できないと思えばしないほうがいい。だがそのときの情況を忘れてもならない。感覚として与えられた材料を忘れてはならず、来るべき未来にまで携えていかねばならない。未来においては自分なりの判断力を、つまりは言葉を構築しているであろうという希望とともに。だから未来はそのときから始まっているともいえる。何度も何度も、放置してしまった事態(過去)に関する記憶にたいして言葉の網を投げかけるのだ。そこでしだいに言葉が構築される、といえば楽観的に過ぎるか。

 感覚はしだいに膨張する。事態を正確に把握することは、その確信をえることで行動することにもつながっている。他面、逐次に与えられた感覚以前に行動への欲求があるとするならば、既存の判断に嫌気がさしてなおかつ別の判断が与えられないとするならば、以前と同系統の行動にはつながらない。自発性をともなった行動は無くなる。判断を回避したならば行動への欲求は当然鬱屈する。判断(正当性)に裏付けられた当時の行動そのものには魅力があり捨てがたいものだ。また少しずつ形成される新たな言葉によっても容易には過去はとらえられず、何度も頓挫する。失敗がまた失敗を生み出すのだ。そうした行動欲の鬱屈やら頓挫した言葉の断片などが、また絡みついた映像やらが、種としての感覚にかさなってひとかたまりになる。するともはや感覚と呼ぶことがふさわしくはなくなる。記憶と呼ぶべきものとなる。

 原初の感覚と現在とがつながっていると仮定しても、はたしてその感覚を現在において単独で取り出すことができるのだろうか。これは時間の経過が関係しそうだが、知らず知らずのうちに変形を蒙っているのかもしれない。それによほど意識的でなければ、単独としての原初の感覚には向き合わないものだ。記憶に、つまり原初の感覚に積み重ねてきたもろもろの試行錯誤をふくめての記憶に私たちは向き合うことに馴れてしまうからだ。錯誤ばかりではないというささやかな自負もあるのかもしれない。かずかぎりなく原初の感覚につきあってきたことで倦んでもいる。だがやはり、自己点検のためでもあるができるだけ先入観を捨てて裸形のつもりで、ときどきは原初の感覚(と見なされる感覚)に回帰することを試みなければならないとも思う。十分に汲み取られてはいないものが存在するからだ。

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