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創世記(2)

  このように正妻の子を重視する創世記であるが、そのなかにおいてはヤハウェは長男よりも次男に目をかけることが一回だけある。たまたまそうなったに過ぎないのだろうが、私には印象に残る。そのときは、次男のほうが族長によりふさわしい能力を備えていることを見抜いて、最初に予言するかたちをとる。

  イサクの子エサウとヤコブは双子だが前者が長男で後者が次男。エサウは「狩りが巧みで野に親しむ人」で、ヤコブは「内気で天幕にこもりがち」の人であった。イメージとしてはエサウのほうが力自慢で純朴、ヤコブはひ弱ということになろうか。ヤハウェとしては人柄的にはエサウに軍配をあげてもよさそうだが、そうはならない。後の展開はヤコブがエサウをだまして家督の権利と父の祝福を横取りするという結果になる。エサウは愚鈍で、ヤコブは悪くずるがしこいという性格が明確になる。兄弟の対立は決定的になり、エサウの報復をおそれたヤコブは、母リベカの助言によって彼女の故郷ハラン(現在のシリア方面)に逃亡する。母がヤコブ贔屓、父がエサウ贔屓という対立関係も背後にある。ヤコブはリベカの兄ラバンのもとで長年にわたって労働することになる。ほとぼりが冷めたころだろうと思って父の地へ帰ろうとするヤコブだが、ラバンは彼を帰そうとはしない。いい働き手だったからだ。つまり、ヤコブははじめにラバンの次女ラケルを気に入って嫁にもらおうとしたが、土地の習慣では長女が先だとラバンにいわれて長女レアを押しつけられる。それまでに七年、さらにラケルをもらうまでに七年と長期間にわたってラバンの下で働かされる。だがヤコブは挫けずに忍耐強く働いて、自分の持ち分の山羊や羊を増やすことに成功する。姉妹のほか奴隷の女も妻にして子供を多く作り人望も得る、出世するのだ。そしてついに一族郎党をひきつれて念願の帰郷を果たす。

  創世記はこの書独特の霞がかかったような空気が支配しているが、じつはたえず風雲急を告げている。この書は移動するひとにぎりの民を追う。放牧生活を生業とする人たちだから、動物に食べさせる草がなければ定住するわけにはいかない。それが根っこにあるが、地中海東岸地方は当時から人口密度の比較的高い地域だったと思われ、また定住民も多く存在したのだから、移動には人との接触がともなう。そこではやはり図抜けたたくましさや知恵が理想とされたのではないか。純朴さは脆さにつうじる。だから代々にわたって土地を継いでいく農耕社会のように、しきたり的に長男を重視することではすまないのではないか。主人公の面々は移動しながら富を増やさなければ、勝利しなければならない。この書によって絶対的に要請されているのだ。父とエサウのいる故郷にかえるヤコブだが、エサウをおそれて群れごとに分けて自らはしんがりの群れに位置して、先遣隊から報告をもってこさせる。用心深いのだが、また悪くとれば卑屈にみえるが、この書(ヤハウェ)はそうは評価しないように読める。ヤコブの生存時はヤコブがユダヤ人の血統の中心人物だから、どんな手段を使ってでも彼は生き抜かなければならないのだ。血統を継ぐ人物で、若死にした人はこの書にはいない。

  ヤコブの晩年の子ヨセフは妻ラケルとの関係では長男であるが、多くの異母兄がいた。レアや奴隷の女との間の子供たちだが、レアはラケルの姉で、ヤコブは先にレアと結婚したからどちらも正妻とみてよいのではないか。するとヤコブは長男とは言い切れなくなる。こだわりすぎかもしれないが。このヨセフもまたヤコブ以上に途轍もない能力者だ。初めは自分の夢によって、次の段階では他人の夢によって未来を予知する能力を備えることになるのだ。なにかしら訓練によってその能力を鍛えられたのではなく、素質としてあらかじめ有していた人だ。まさに神がかり的な人物で、そうなれば神は「二人」存在する必要はなく、ヤハウェがもっとも陰がうすくなる順の血統である。

  

あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。そこで彼らはますますヨセフを憎んだ。
  ヨセフが言った。
「ぼくはこんな夢を見ました。どうか聞いてください。ぼくたちが畑の中で束をゆわえていると、ぼくの束がむくりと起きて、突っ立ちました。そして、なんと兄さんたちの束がまわりに寄ってきて、ぼくの束におじぎをするのです」
  これを聞いた兄たちは、
「いったい、おまえはおれたちの王になり、おれたちを支配しようとでもいうのか」
と言って、この夢物語のためにますますヨセフを憎むようになった。(第38章6)



  ヨセフは父の晩年に生まれたこともあって父ヤコブにいちばん可愛がられた人である。それが上の兄弟にとっては当然おもしろくない。また、この予言は夢を見たことの感動を素直に吐露しているので、自分がやがて族長になるという未来にたいしてはまったく無自覚であろう。だが後の展開をみれば、ヨセフが未来を言い当てたことになる。ヨセフは族長になりたいという欲望を持っているのではないが、そう誤解した兄弟たちはヨセフを行商人に売り飛ばしてしまう。父にはヨセフの上着に獣の血をつけて見せて、さも獣に食い殺されたように嘘の報告をするのだ。

  ヨセフは行商人によってさらにエジプト人に売られるという運命をたどるが、ここからが長い。いったんは牢獄につながれたりもするが、王に目をかけられて行政府の長官にまで登りつめる。王につぐナンバー2の位である。そこで王の見た夢で未来を言い当てて行政手腕を最大に発揮し、エジプトの飢饉を救い、さらには故郷カナンの飢饉をも救って、父や兄弟たちと再会を果たし和解するという大団円となる。苛酷な運命に投げ入れられながらも堪えて移住先で栄達を果たすという物語であるが、父ヤコブのたどった運命をその度合いをさらに増幅しながらなぞる趣きがある。ユダヤ人はこういう物語が好きなようだ。

  「創世記」や「出エジプト記」において、のちにユダヤ人と呼ばれる人々の中心的な部分、自らをより意識した部分はその存立基盤を「移動」においた。そして当然移動しながら勝利しなければならない。生活の安定と支配権の拡大を目指さなければならない。また移動先においてはたえず故郷のカナン地方、ヨルダン川西岸地域を忘れない。カナンやその周辺の定住民もユダヤ人であってかまわないが、そのもっとも屈強な部分の、移動をくりかえしてやがてカナンに錦を飾るリーダーの一族を仰ぐことを要請される。ユダヤ人は、ユダヤ人であることを意識した瞬間に「創世記」に書かれた移動と勝利を肯定しなければならない仕組みになっている。戦いを強制されることが中心主題で「神話」としては重苦しい。ギリシャ神話やわが国の「古事記」には、欲望にとりつかれて国家や運命によって滅んでいく人たちを哀れみをこめて記すことを怠らないが、「創世記」「出エジプト記」にはそれはない。複数の作者が排除したのか、もともとそんなところに行き届く視線を持たなかったのかはわからないが。

  ヨセフは百十歳まで生きてエジプトに骨を埋める。同地にのこされた兄弟や一族への遺言は、故郷カナンをあらためて聖化し、後にユダヤ人と呼ばれる人々の存立基盤を護持することが歌いあげられる。
  
  

「いよいよ神の顧みの時が来たならば、わが骨をここからたずさえて上るように」 。(第50章-25)



  これはエジプトにとどまったユダヤ人全員のカナン帰還をユダヤ人に命令するものだ。その意志はのちにモーセによって実現される。
       (了)
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