大洋ボート

ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ

 原作が太宰治であり、太宰をモデルにした小説家役の浅野忠信もでてくるが、太宰を掘り下げるというよりも、浅野の妻の松たか子に焦点を当てている、つまりは松が主演の映画である。浅野が数年にわたって馴染んできた居酒屋から金を盗み出した。怒り心頭の居酒屋の夫婦の伊武雅刀と室井滋が家まで乗りこんでくるが、松は気丈に応対して、二人の居酒屋で自分が働いて金を少しずつ返済することで伊武と室井に納得してもらう。

 働きはじめると、松の人気で店はおもわぬ繁盛振りをみせる。ここからが物語のはじまりである。小説家の浅野のファンである妻夫木聡と知り合ったり、かつての恋人の堤真一と偶然再会したりする。子供を抱える松だったが、ここで春がふたたび訪れる気配に直面するのだ。人生はひとつの選択しかできないが、放蕩癖があり女性関係にもだらしない浅野と結婚したことがよかったのか、松は迷う。それまで考えてもみなかった「自分探し」を、もたらされた偶然によって、忙しいなかで秘かにやってみる。だが、ついには恋にいまさら突き進むことができない自分を発見するというのが結末で、「自分探し」はそれまでの自分に戻る、それまでの自分をつづけることで幕が下りる。

 松のなかに動かないものがある。動こうとしたものは、はたしてあさはかな欲求だったのか、古い時代だから女性は貞操堅固だったのか、夫への義理か、小説家の夫への尊敬の念がはたらくのか、そういうもろもろが作用したのかもしれない。また夫との関係がまだまだ端緒についたばかりだという思いもあるだろう。だが映画は、松が動かない理由をはっきりはさせない。少なくともわかりやすい説明はない。これは根岸吉太郎監督の意思だろう。結婚して短いながらも家庭生活を松たか子は体験して、そこで何か言葉にはできない肯定的なものをつかんだのだ。書いたような家庭生活にはとても向かない浅野忠信の人物像だから、あたたかい愛情を素直に交わすことなど難しいにちがいなく、松たか子は耐えることも覚えずにはいられなかっただろう。だが忍耐というだけでは「肯定的なもの」は説明できない。また「肯定的」と書くものの、反面たいへんかぼそいものでもあるのだ。だがかぼそくても引っぱられる、大事にしたい。動かないものとはそんなことではないのか。視聴者としてはわからないようでわかる、そこはかとしながらも芯は松たか子のなかに見える、私はそんな自分勝手ともいえる解釈に促されつつ、松たか子を見守った。

 映像としては、浅野と広末涼子が心中をしようとする場面が印象的だった。森のなかの川の急流を見下ろす場所だが、なかでも浅野が睡眠薬を大量に飲んで木に首を紐でくくりつけて仰向けになったときだ。カメラは地から天への浅野の視線を代行する。杉の木立がまっすぐに伸びたその先に青空が、なんともあっけらかんとして映る。私はぞくっとした。冷たいといえば冷たい感触で、心中という地獄的な思いでさえ、なにかしらあたたかく映ってしまう。これは空という存在が人間的な思いになんのかかわりもなしに、それ以前にあるからだ。浅野がその風景を飲みこむようにする様子が、私は見た気がする。

 出演者のなかでは伊武雅刀と室井滋がいい。脇をかためるという言い方があるが、この二人は出番が多いだけにそれ以上に土台を形成している感がある。出しゃばらないという意味でもあり、清楚さを自然にかもしだすが少し危なっかしい松たか子を支えるのに十二分に貢献している。浅野忠信、妻夫木聡、堤真一にも好感が持てた。最後に松が浅野に言うセリフは「生きていさえすればいいのよ」。これは原作では主人公(太宰)に悪魔的に響いたが、映画ではそうでもなく、肩透かしを食らった気がしたが、これも私が太宰治に思わずこだわるからかもしれない。
★★★
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