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プラトン「ソクラテスの弁明」

ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))
(2002/01)
プラトン

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 知的立場とは何か、という問いにたいする答えがここにある。太古に書かれた書であるが、ソクラテスの言はすみずみまで筋がとおっている。堂々としてひるむことがなく、現代においても衝撃力をうしなっていない。

 紀元前399年、ソクラテスは「不敬罪」のよって訴えられた。ソクラテスが70歳のときだ。神にたいする不敬や嘘の言説をふりまく。「異神」(ダイモン)をもちあげて、青年たちをたぶらかして害毒をふりまく、というようなことだ。それだけ彼の支持者が多くいたということであり、逆に、政治的支配者が彼の社会的影響力のひろがりに危惧を抱いたからであろう。裁判は陪審員の多数決によって決せられ、ソクラテスは死刑の決定をくだされた。この書は,裁判が進行するなかでの彼の無罪の訴えであり、また判決がくだされたあとの支持者への別れの言葉である。もっとも裁判の詳細はソクラテスを訴えた側の言葉が省略されているので、たどることができない。ソクラテスの基本的立場が、単に無罪を主張するという次元にとどまらずに,知にたいする愛と実践として強力につらぬかれて記されている。

 ソクラテスは知的探究心を、正しいこと、善いこと、美しいことの人間のなかでの三者一体のありように注いだ人であった。当然、それは人の生き方として実践に深くかかわるもので「魂をみがく」という言い方にもあらわれる。そして「知」のありかた。「知」とはぶれないことだ。どこへ行っても、語る相手がだれであっても、言葉は同じでなければならない。地位、名誉、出世のために言葉を変えてはならない、知をそれらの手段にしてはならない、また知によって多額の報酬を得てはならない。また、裁判において死刑判決がくだされそうなときでも、命乞いをしてはならない、家族を連れてきて涙で訴えさせて陪審員の同情を買うことなどもしてはならない、等々。

 ソクラテスは知識の集積を自慢する人ではなかった。むしろ、それほど多くのことを知っているのではないと言う。そして肝心なことは、知らないことを知っているとは決して言わないことで、多くの弁論家は対話してみてわかったが、知らないことを知っているふりをする、それは無知にほかならない、知らないことを知っていると言うよりも、知らないことを知らないと言うほうが多く知っていることになる、知的立場としては上位にあるという。正直であることは無論、これがソクラテスの知を曇りのないものとして絶えず屹立させる方法論であった。知にたいする愛でもあった。この立場は死を前にしたときに典型的にあらわれる。

 なぜなら、死を恐れるということは、いいですか、諸君、知恵がないのにあると思っていることにほかならないのです。なぜなら、知らないことを知っていると思うことだからです。なぜなら、死を知っている者はだれもいないからです。ひょっとすると、それはまた、人間にとって、いっさいの善いもののうちの最大のものかもしれないのですが、しかし彼らは、それを恐れているのです。つまり、それが害悪の最大のものであることをよく知っているかのようにです。そしてそれこそ、どう見ても、知らないのに知っていると思っているというので、いまさんざんに悪く言われた無知というものにほかならないのではないでしょうか。(p43)


 私はここまではとても言えない。多くの人もそうであろうと思う。死をしこたま体験してきて帰還した人などだれもいないのだから、死がわからないという言い方はそのとおりだろう。だが知にとってはわからないことにたいしては評価しようがない。死を地獄だとか、逆に天国だとか極楽だとかいうのは現生における言説で、たしかなことは何ひとつわからない。わからないことをあえて「恐れる」とは知的立場としてはとても執りようのない態度ではないか。知らないことを知っていると強弁するにひとしいことになり、これはソクラテスの軽蔑の対象となる。また、あからさまには書かれてはいないが、一旦死の運命が決定づけられた場合は、生にたいして未練がましい態度をとるべきではないということだろう。

 私自身は死をおそれる。死が決定づけられて逃れようがなくなっても、たぶんじたばたするだろう、もっと生きていたいと無念の思いを噛みしめるだろう。諦めの境地には達することができるのかもしれないが、時間を要する気がする。知的立場としてではなく、本能として、死にたいしてはそういう反応しか執りようがないと予想するしかない。本能とは、わからないから「恐れない」という態度をとるのではない、わからないから恐れるのだ。人間一人はちっぽけな存在である。天災や獣や戦争やおそいかかってくる人間の集団にたいしては無力で、その無力感は本能に貼りついている。ましてや死はわからないという以上に人間にたいして圧倒的な力と運命を有している。死はだれにたいしても避けられることなく平等におとずれる。ソクラテスとて、こういう本能から死をおそれる「立場」を知らなかったはずもないだろう。

 ソクラテスも私たちと同じ人間だから、本能や欲望は彼のなかに実在しただろう。だが彼はそれらを直接的に社会や物質に向けなかった。知的立場を確立すること、魂をみがくことに向けられた。そして知的立場をもって社会や物質を見る。欲望がこちらにあるとすると、あちらにあるのは社会や物質ではなくて知である。そうして知的立場に立ったときは欲望はその下にかくれている。欲望によってではなしに、知によって外側を眺める。このソクラテスの欲望のある部分を愛と読んでもさしつかえないのだ。欲望は実在してもその使い方、向けられ方が変換されるのだ。私がソクラテスのように死を恐れないと断言することができないとしても、この欲望の変換の構造はわかる気がする。

 ソクラテスはまた、政治の世界に生きることを嫌った。何度か重要な政治的立場に立ったことがあるらしく、その経験から語るのだが、政治の世界はあまりにも汚穢に満ちていて、正しさを求めるには命がいくつあっても足りない世界だとして,下りるのが懸命だとした。人々と語り合って「正しさ」を探求すること自分にもっともふさわしい道だと悟った。そしてソクラテスの根本にあるもうひとつのものは神(ゼウス)である。ここだけは非論理的で繊細だ。裁判の終了後、「裁判官諸君」と彼は彼の無罪を主張してくれた人々に向かって言う。

 

わたしに妙なことが起こったのです。というのは、わたしにいつも起こる例の神のお告げというものは、これまでの全生涯を通じていつもたいへん数しげくあらわれて、ごく些細なことについても、わたしのおこなおうとしていることが当を得ていないばあいには、反対したものなのです。(中略)ところが、そのわたしに対して、朝、家を出てくるときにも、神の例の合図は、反対しなかったのです。(P79)



 死刑判決がくだされることが十分に予想される裁判について、ソクラテスは言っている。神の御加護があるから、死を従容として受け入れる自分はまちがっていない、それどころか十二分に心強いと。

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