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角田光代『三面記事小説』(3)

三面記事小説三面記事小説
(2007/09)
角田 光代

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 「赤い筆箱」は、仲良しだった姉妹が、妹の中学受験失敗によって急に疎遠になってしまうという話だ。その中学は中校一貫の女子高で、偏差値も高く、姉の実智が先に入っていて、妹の奈緒もそのあとを目指したのだが,かなわなかった。その直後はしょげていた奈緒だが、やがて入学した中学で友達を多くつくって充実した日々を送るようになる。実智の視線をとおしてのみの記述なので奈緒の心理はわからないが、たぶん「受験失敗」という情報を頭から追い出して、身軽になりたいのだろう。そうすることで同時に姉という存在をも追い出してしまうことになる。

 子供の兄弟姉妹のすべてではないにせよ、こういうことはよく起こりうることなのだろう。その意味では深刻だ。実智にすれば、たがいに小学生だった時代には、下校時も妹を待たせて一緒に帰宅した仲で、自分の身体の延長線上に奈緒がいたと無意識に思っていたようだ。だが今になって実智はふりかえる。実智は「いじめられっ子」だった。たとえば祖母に買ってもらった「赤い筆箱」は、子供らしいイラストが描かれていない古いタイプのもので、「いじめ」の原因になりかねないしろものだったのを、それを心配してか、奈緒がイラストのついたピンク色のものをプレゼントしてくれたのだ。そればかりでなく、実智の身につけるさまざまなものを、母と買い物に行ったときに奈緒はアドバイスしてくれた。実智は自分のセンスに自信がなかった。学校でいじめられて帰宅して、その憂さ晴らしにペットのハムスターを殺してしまったときも、奈緒は実智を庇ってくれた。大げさに言えば、奈緒は実智にとっての介添え役だった。それが中学受験失敗という事態に直面して、奈緒は姉を急に負担に思いはじめた。「いじめられっ子」で暗い姉を助けるよりも、外の世界に自分をぶつけていき解放したくなった。

 父母もどちらかというと妹のほうが可愛いようで、実智は変わってしまった奈緒もふくめた三人が、自分に気づいてくれないという思いに締めつけられる。「透明人間」のように自分はそこにいないかのような感覚だ。一つ屋根の下で、こういう思いに責められるのは、つらいにちがいない。結末は、姉が妹を刺殺してしまうという惨劇だが、あまりにも唐突である。実智の幻想ととらえてもよいのではないか。もっとも、子供の犯罪自体が唐突であることが多いので、どちらとも受けとれる。


 「光の川」は、アルツハイマー病に罹った母を四十代の独身男性が介護し、苦闘する話。食事や排泄を手助けなしにはできなくなる。高額な商品をつづけて買ったり、生ゴミを新聞紙に包んで家のあちこちに隠したりと、奇行も絶えない。また息子を息子として認知できなくなる。長男の輝男は、当然のごとく世話をしなければならなくなるが、ここでもまた子供時代の家族間の不和が影を落としている。輝男には三歳年上の姉がいるが、母は何故かこの姉がきらいで、輝男のほうをえこ贔屓した。姉の修学旅行の積立金さえ出さないくらいで、姉にとっての必要最低限の品物、身につけるものなども徹頭徹尾金を出し渋った。たまらなくなって姉は早くに家を出て、自立を選んだ。みずから絶縁したのも同然だ。その姉は現在は専業主婦の立場にあって、余暇がありそうだが、以前からの怨みを抱いていて、母の介護をかたくなに拒否するのだ。こういうこともあって、長男・輝男は介護疲れがどんどんかさなっていく。デイケア・サービス、入院と金も時間もかさんでくる。ついに仕事も満足にできなくなって、辞めざるをえなくなる。

 だがこの短編を作者が書いた目的は、単に介護によって身の置きどころを奪われるほど心身を追いつめられる、そういう人間の境遇を描くことだけではなかった。悪くなる一方の人間関係、動物と人間のようなどんづまりの人間関係のなかから、まるで正反対の理想的な人間関係が、輝男の目に必然性をともなって浮かんでくる、これが角田光代が書きたかったことだ。これは感傷ではなく、宗教的感情といえるのではないか。理想には絶望的にたどりつけない、そこから遠ざかる一方だ、そういうときにこそ、理想の人間関係がくっきりと浮かびあがってくる。これが切羽詰った人間を支えないはずはない。このさきの長男と母の運命がどうなろうともだ。輝男が母を車椅子に乗せて江ノ島へ旅したときの思い。そこは輝男が、子供時代によく母に連れてこられた思い出の地だ。彼は帰りがけに濃密な既視感におおわれる。

「いっしょにこうしていたの、いつだったろう」
 輝男は思わず母に訊く。母はゆっくり輝男を見る。ぼんやりとしたその目を見て、母ではなかった、と思う。この人とたしかにこうして並んで座っていた、でもそのとき、この人は母ではなかった、母ではなくだれかだった、そして自分も息子ではなかった、息子ではなくだれかだった。ともに座っていたときの、母が女だったのか男だったのか、自分が男だったのか女だったのか、どうしても思い出せないのだけれど、男でもなく女でもなくただこうして寄り添うように座っていたことだけは、今や疑いようがなく輝男のなかではっきりしている。(p258)



 気まぐれにつくられた幻想ではなく、既視感というかたちで輝男のなかにまず幻想が立ちあらわれて、それを吸い込まれるように見つめる、養分を取りこむように注視する人間の姿がここにある。そしてさらに幻想は川を遡るように飛躍する。輝男にとって、母は母以外の「だれか」であったということ以上に、さらに母にとっても自分は自分以外の「だれか」、理想的な「だれか」であった、引用した輝男の幻想の中でというよりも、アルツハイマーに罹患したときの母の思いのなかで。こうした輝男の幻想の拡張は「必然的」なのかどうか、私にはわからない。ただ、悲痛で、母思いの息子でることは理解できる気がする。

 たつ子が輝男を自分の息子だと認知しなくなったとき、輝男は絶望的な気分になったが、けれどたつ子は輝男の向こうに、ちがうだれかの姿を見ていたのに違いない。記憶よりも鮮明で、もっと強いものを見ていたに違いない。この世界に生れてくる前に、もっとも近しかっただれかの姿。帰りたい、帰りたいとたつ子が言う場所は、この世界の外にある。だから待っていて。輝男は思う。すぐにいくから。自分もすぐにそこに帰るから。そこでふたたび出会えたら、もう一度しっかり手をつないで、この世界へとやってこよう。いっしょにここに戻ってこよう。(p258~259)


 母のたつ子が「帰りたい」という場所は「この世界の外」のあると、輝男は思う。直接的には理想郷を指すと思われるが、やがてはそれは、転がるように死の世界に直結してしまうのではないか、と私は危惧の念を持ってしまう。だが私は留保をつけたい。本編の冒頭に引用された新聞見出しは「介護疲れで母殺害容疑」だが、この幻想の白熱をそういう結末に安易に結びつけたくはない。悲惨な結末に引きずられる心の過程としてよりも、幻想の独立性として、また、もっとも高貴な人間関係をどんづまりのさなかで夢見ることができた人間、ということに刮目したい。甘いといわれるかもしれないが、それは悲痛さと背中合わせの「至福」であり、真面目な人だけが出会うことのできる「必然」だと思いたいからだ。必ずしも新聞見出しの結末が待ち受けているとは思いたくない。

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