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角田光代『八日目の蝉』

八日目の蝉八日目の蝉
(2007/03)
角田 光代

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 幸せとは何かと訊ねられたらどう答えるべきだろうか。衣食住がそこそこ満たされていて周縁の小さな人間関係が屈託なく営まれている、これで大きく間違ってはいないだろう。そこにエゴがかさなる場合もあるだろうが、剥き出しのエゴにありがちな、たとえば競争相手を蹴落としてほくそ笑んでいるというような生臭さはない、もしそういう事実が介在したとしても、ほとんど意識されないまま深く沈んでいる状態を指すのではないか、幸せという言葉から私に喚起されるイメージは、そういうものだ。また幸せに対する位置のちがいというものもある。目の前で現に幸せをつくりつつあるという自覚、反対に過去に幸せを実感したものの現在ではそこからとおく隔てられているという実感。つまりは具体的な条件を必要としながらも、そのさなかでは感覚的なものでもある幸せという状態。さらにそれを味わってしまえば後々までも記憶に刻み付けられるであろう幸せ。ぼんやりしているが、うっとりさせられる幸せ。「幸せ」について書き漏らすまいと思うと長くなる。はじめにこういうことを書いてしまうのは、後半の主人公、秋山恵理菜のなかで幸せのイメージが彼女自身の予想を超えて立ち上がってくるクライマックスがすばらしいからだ。やったなあ、よかったなあと、応援したくなる。小説を読む醍醐味を味わえる。だがそこまで辿り着くには、この小説のほとんど全体の時間、長い長い時間がかかっているのだ。

 恵理菜は赤ん坊の頃、野々宮希和子という女性に誘拐されて、以後三年あまりその女性に育てられた。希和子はその子供をどうしても欲しかった。そこまでの気持ちに追い詰められるには同情すべき事情があった。恵理菜がまだ生れる以前に、希和子は恵理菜の父の秋山丈博と肉体関係をもった。秋山には妻がいたので希和子は浮気相手になるが、希和子は真剣で将来の結婚も夢見ていた。やがて希和子は妊娠するが、秋山は将来のことは約束しながらも〈今はその時期ではない〉という理由で堕胎を希和子に頼み込む。言われるとおりにした希和子だが、難手術のために二度と妊娠できない身体になってしまった。そしてそのあとに秋山夫妻にできたのが長女恵理菜だった。復讐感情もあるだろう、自分だけが置いてきぼりにされて秋山の一家だけが幸せになることへの嫉妬もあるだろう、またその子供が「自分の子供」だという激しい思い込みも形成されたのだろう。以降、希和子は恵理菜を抱いて懸命の逃避行をつづけることになる。恵理菜という名を知らないので「薫」と名づけて。

 指名手配をされる希和子だが、行く先々で出会う人はそれを知らない。勿論その赤ん坊が他人の子であることも知らない。だが人々は子を抱えた希和子に何らかの事情を察するのか一様に同情的である。友人〈彼女には他人の子を預かっていると嘘を言う〉、一人住まいの初老の女性、エンジェルホームという女性ばかりの共同生活組織、そのエンジェルホームで友人となった女性の母のいる小豆島と、転々とする。希和子は悪事をしているという自覚は確固としてある。だが「薫」を手放したくない、自分の手で育て上げたいという希望はまるで不屈の意志だ。それが「悪事」を上まわるのだ。泣きじゃくり、オシメを取替え、ミルクを与えつづけることに汲々とした「薫」はようやく物心ついて希和子を母として見るようになった。大部分の子供と同じように「母」に自然になつくようになった。そうなればなお、自分を置いてはこの子供を育てる人はいないというつきつめた決心に立たざるをえないのだ。そうでなければ、子供をおいて自分だけが逃亡したほうがずっと楽だ。エンジェルホームが拉致・監禁などのマスコミの疑惑の的(「イエスの箱舟」や「オウム真理教」がモデルだろう)になったときも、「薫」を連れての逃亡だ。

 もし、二手に分かれる道の真ん中に立たされて、どちらにいくかと神様に訊かれたら、私はきっと、幸も不幸も関係なく、罪も罰も関係なく、その先に薫がいる道を躊躇なく選ぶだろう。何度くりかえしてもそうするだろう。そんなことを思う。(p195)


 希和子は自分ひとりの幸せを求めてはいない。「薫」を優先してそのあとにある自分だ。だが、平穏に育てることができたならば「薫」のなかにきっと幸せの核が形成されるであろうというという思いが強くあるのだ。「母」としての自覚に目覚めたということか、それが彼女の自信であり、希望であり、しいて言えば幸せなのだろう。そういう念願が十二分にかなえられるのが、最期の逃亡の地、小豆島における「母子」の安定した生活である。希和子は先に記した友人の母の元で安定した職を得、「薫」はゆたかな自然の元、幼友達にかこまれて元気一杯に遊びまわるのである。

 ストーリーの説明が長くなるが、もう少しある。誘拐犯の希和子から解放されて実家にもどされた恵理菜〈薫〉だが、家の空気に馴染めない。誘拐事件に至るまでの一家にまつわる人間関係がマスコミ週刊誌の格好の餌食となり、秋山は非難を浴びる一方で、犯人の希和子は同情された。一家は引越しをするが、噂と好奇の目はついてまわる。恵理菜も学校では友達ができない。一家への風当たりは強く、妻の恵津子もおもしろくない。恵理名が小豆島の方言を口にするたびにヒステリックに叱責する、事件を持ちだしては夫を非難する、また夜な夜な遊びに出かける。父の丈博は諦めて傍観的態度に終始する。恵理菜は妹の真理菜とも心底仲良しにはなれずに、大学生になったときから早くも一人暮らしを始める。勿論、こういうことの原因を作った一番の責任者は希和子という女性だから、恵理名は彼女を憎まずに入られない。だが事態は一変する。恵理菜は希和子とまったく同じことをしてしまう。妻のいる男性を好きになってしまって身籠るのだ。まるで合同図形である。またしても男から堕胎を懇願されるのだが、希和子とちがって恵理菜は出産を決意するのだ。またその直前にはエンジェルホームでの遊び相手だった千草という女性とも再会している。希和子に対するかたくなに無視する態度が、同じ境遇に追い込まれたことで、恵理菜のなかで少しずつ氷解してくる。

 作者角田光代は前半部において希和子に寄り添うようにして書いてきた。誘拐犯であることにおいて悪女であることは動かせないが、反面では子供に対する無償の愛を貫こうとした女性であり、角田はここに力点を置いて書いたし、その思いは十分に読者に伝わった。こと子供に関しては希和子は渾身の力をふりしぼってきた。その女性に三年間育てられて恵理菜は今ある。その恵理菜が、読者が先に感得した希和子への思いを「育てられた子」として少しずつ汲み取っていく、この過程が透明感をともなって素晴らしいのだ。これから生んで育てようとする子への思い、未来への思いが、希和子への思い、そしてわずかの期間だが暮らして覚えている小豆島への思いと重なる。それらが何重にもなって重なる。かつてそこで暮らして幸せであったという記憶を恵理菜は封印してきたのだが、それが解き放たれる。恵理菜は千草とともに小豆島に旅に出かける。幸せだった記憶の場所にたしかな足取りで近づいていく――。これもまたもうひとつの幸せでなくて何だろうか。

 実際に再会することはなくても、この二人の不幸を背負った女性は万感の思いをこめて、変な言い方だが小説のなかで再会している。魂と魂が触れ合っている。相思相愛なのだ。角田光代はこの劇的な再会をあざやかな手さばきで見せてくれた。希和子の出所後の静かな生活にも触れられる。「薫」への思いは終生変わらない。それにしても、いがみ合う人間関係の泥沼から脱出して幸せを手に入れることの何とも困難なことか。だが挑戦せずにはいられない。シングルマザーの道が険しいことがわかっていても。恵理菜のその長い長い旅に、私は共感せずにはいられなかった。最後に小豆島行きのフェリー乗り場で恵理菜が幼い頃の記憶に引きこまれる場面を引用しておこう。

 知っている、と気づく。思い出す必要もないくらい私は知っている。あの日、知らない人に連れられてこの場所に着いたとき、すっと消えた色とにおいが、押し寄せるようにいっぺんに戻ってくる。その勢いに私はたじろぐ。
 橙の夕日、鏡のような銀の海、丸みを帯びた緑の島、田んぼの縁に咲く真っ赤な花、風に揺れる白い葉、醤油の甘いなつかしいにおい、友達と競走して遊んだしし垣の崩れかけた塀、望んで手に入れたわけではない色とにおいが、疎ましくて記憶の底に押しこんだ光景が、土砂降りの雨みたいに私を浸す。薫。私を呼ぶ声が聞こえる。薫、だいじょうぶよ、こわくない。
 そんなものは何ひとついらなかった。凪いだ海も醤油のにおいも別の名前も。何ひとつ望んでおらず、何ひとつ選んだわけではない。それなのに私は知っている。自分からは一度も訪れたことのない場所の記憶を、こんなにも持っている。こんなにもゆたかに持ってしまっている(p329)



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