大洋ボート

武田泰淳「ひかりごけ」

ひかりごけ (新潮文庫)ひかりごけ (新潮文庫)
(1992/04)
武田 泰淳

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 一部の評者から戦後文学の傑作として支持される作品であるが、私が読んだところではそうでもない。問題提起の鋭さは感じられるものの結局は難解に終わっていると受け止めざるをえなかった。主題は人肉食で、そういう野蛮な行為に手を染めてしまったものは大罪に陥る、だが同時にそれは神仏の聖性に近づくことである、その光輝のなかにつつまれることである、というのが作者のいわんとするところらしい。私にはこの主張の是非を論じることができない。問題が大きすぎるから、また私の現在にとって切実さが即時的に感得できないからだ。仏教やキリスト教において、罪人ほど(病者、貧者もそこに入るようだ)神に近い存在だという教義があることは少しは知っているが、その教えをひけらかすだけでなく、身をもって訴えかける切実さがこの短編からは感じられない。武田泰淳という作家独特のそらとぼけた空気があって、ここではマイナスにはたらいている。膜がはさまっている気がする。

 実際にあった事件に題材を借りている。戦争末期の昭和十九年十二月に軍属『暁部隊』という船団が知床岬経由で小樽をめざして根室港を出航したが、そのうちの一隻の漁船が知床付近で難破した。七名の乗組員は全員陸地にたどり着き無人の漁師小屋に避難することができたが、食糧はなくつぎつぎに餓死していった。その死体を生き残った船員が切り刻んで食べて余命をつないだ。食糧の「死体」が尽きると飢え死にする者が出る、するとまたそれを食糧にするという方式がつづき、最後には船長一人が残って、救助を求めてさまよっているところを地元村民に発見された。そういう話だ。この事件を下敷きにして作者は書き物をものにすべく、事件現場である羅臼へはるばるおもむいて調査する、それが前半部にあたり、後半は事件をやや作り変えた戯曲になる。前半のハイライトは「マッカウシ洞窟」という場所で、名物の「ひかりごけ」を見物するところだろうか。そこは奥深い洞窟というよりも海に面した岩の窪みに近い形状で、地面と岩のいたるところに苔が生えているが、別にめずらしくもない。ところがそこをさまよっているうちに光の反射の具合で苔のある一部が淡い金緑色に光りだす、歩いて位置を変えるとその光は消失し、かわって別のカ所の苔が同じように淡く光る。作者はこの「ひかりごけ」を戯曲において罪人の背光として象徴的に転用するのだ。罪を犯した自身では見えないが、いまだ罪を犯してはいない周りの人からは淡くかがやく背光としてありありと見えるという風に。

 戯曲の登場人物は四人で、船長と三人の船員西川、八蔵、五助である。五助、八蔵の順番で飢え死にしていく。八蔵は五助の肉を食わなかったために死期を早めた。西川は食人を強硬にこばんだが船長の説得に負けて食べてしまう。そののち八蔵の目から西川のうしろに淡い光が生じて映る。西川が人の死肉を食らった直後からその行いゆえに罪人となり、罪人であるが故の光輝をまとう。神仏の栄光としてわかりやすく、だが淡く知らしめるためだ。またその「ひかりごけ」の光を無理なく自然化するために戯曲の舞台は漁民の小屋ではなく「マッカウス洞窟」になっている。

 船長は極悪人としか思えない。飢え死にするよりも天皇陛下のため国のために死んで奉公すべきではないかと西川を説得する。議論が長くなることは控えたいが、私は生き延びるために人の死肉を食べることはそれほどの罪悪であるとは思えない。だからいろいろと口実を作って人肉を食べさせて船員を生きさせようとする船長の言動はことさら異論をはさみたくはない。それよりも、西川が船長に殺害されることをおそれて逃亡しようとしたところを船長に殺害されることのほうがよほど重要だと考える。海に飛びこんで自殺するよりは船長自身が西川を胃袋におさめたほうがよほど合理的だと船長は見なしたのだろうが、エゴそのものである。作者が書いているように人の死肉を食うよりも、食うために殺すのだからはるかに重罪だ。西川にしてみても船長を殺して食べるということは頭によぎったのであろうが、それはやらずに逃亡をえらんだ。作者はそういう西川や、五助を食わずに死んだ八蔵に同情を寄せながらも、書く中心はやはり船長だ。第二幕の裁判では、裁判長や検事にはげしく糾弾させながらも、船長に茫洋とした、また堂々とした態度をとらせている。彼は罪をあっさりと認めながらも涙を流しての謝罪などしない。船長はただ「我慢している」と繰りかえすのみだ。作者はもっと船長に語らせるべきだと思う。

 みずからが生きるために人を殺す、そしてその人の肉体を食べる、そういうことが私たちに万万が一ないとはいえない。それを体験したとしてそののちに自身にではなく、非体験者に示されるのが極悪人=聖人説であり、またそれを拡張したところの全人類=聖人説だ。それをひかりごけの淡いかすかな光で人々に認知させようとするのだ。だがこれは人間が考え出した宗教思想だ。自然の風景が神々しく見えることはあるだろう。また何らかの生理的快感が宗教的感覚につながるものを招き寄せることもあるだろう。だが罪人(非罪人もふくむ)に自然のような背光がみえて、いきなり「思想」を暗示するということが、私にはわかりづらいのだ。思想との距離の変化、つまりはそこに近づいたりとおざかったりすることだが、それをすることによって思想はさまざまな表情を見せるにちがいない。思想と個人との固有の関係のありようによってこそ思想は生き生きと語られるのではないか。体験が何らかの思想につながることはあるが、それがすべてひとつの固定的な思想に収斂されるとは考えたくない。武田は自信家かもしれないが省略的過ぎる。いきなりのように自然=光を借りて思想が提示されるから、引いてしまうのだ。

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2009.06.30 Tue 21:46  |  seha #-
映画は知りませんが、熊井監督だから
たぶん手抜きはないんでしょうね。

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Re: タイトルなし  [URL] [Edit]
2009.06.26 Fri 23:04  |  GANG GREEN #-
これは、原作よりも
熊井啓の映画のほうが
よほどシックリきますね。
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