大洋ボート

ジャック・ロンドン「世界が若かったとき」「水の子」

 これまで紹介してきた諸短編は、ジャック・ロンドンの体験やそこでの見聞が下敷きになっていたり、ボクシングを扱ったものなら観察と興味が大きい比重を占めている。つまり、事実を土台にしてそこにロンドンの作家的創作をくわえたとみてよいが、この「世界が若かったとき」は創作そのものである。小説的虚構をある部分では荒唐無稽なほどにふくらまして苦笑させるが、読ませる。ロンドンその人のあこがれと煩悶がストレートに表現されている。「野生」にあこがれながらも市民生活をまっとうさせるためには、やむなくそこから撤退せざるをえない、そんな悲哀がこめられている。

 ジェームズ・ウォードは40代の会社社長で、広大な屋敷を所有している。だが子供のときから奇癖があった。夜になると「野生」に目覚め、体がむずむずしてくる。いても立ってもいられなくなって、夜、家を抜け出して周囲の野山を徘徊するのだ。裸同然で駆けまわり、コヨーテを追ったり鶉の卵を見つけては食べたりする。洞窟で何日も暮らしたこともある。やがては帰宅するのだが、両親は当然心配になって医者に相談するが、医者の診察の如何にかかわらず、彼は自分を病気だとは思っていない。そういう風に「野生に戻る」ことがこよなく好きで、そこに大真面目に理想郷を見出すのだ。成長が阻害されることもない。勉強にスポーツに十分活躍し、体躯も群を抜くほどに大きくなる。喧嘩をしてもどんな猛者にも負けない。そんな二重生活を40を越しても毎日のようにつづけてきた。またそういう彼の二重生活を知る者はたった一人彼のの料理人をのぞいては誰も知らない。だがここへきて厄介な問題が出てきた。結婚である。

 ガールフレンドとつきあった経験はあるが、夜になると「野生」がどうしても目覚めてしまい愛撫が乱暴になり、女性は青あざをつけられる。当然つきあいは長つづきしない。異性をあきらめかけたウォードだったがやはり好きな人にめぐりあってしまう。用心して彼は午後8時以後には女性と会わない決まりをつくって自らに課した。徘徊癖も自重した。ベランダに彼専用のスペースをつくってそこを外部から頑丈に施錠し、内部にはトレーニングの器械を運んできて体力の向上にも怠りなきように用意万端整えたのだ。その暮らしぶりも順調に推移するかにみえたが、異変が起こる。サーカスから脱走した熊が彼の住宅の庭に侵入してきたのだ。彼の愛犬も重傷を負う。復讐心も梃子になって「野生」の血が猛然とウォードのなかに沸きあがる。庭へ下りていって熊との決闘となり見事彼は勝利する。だが婚約者やその母も目撃した。彼女達をはじめ何人かの客がその日宿泊していた。

 客たちは彼を喝采し称賛しようと飛び出していったが、ジェームズ・ウォードは突如、大昔のチュートン人の目の端で、自分が愛する、色白でか弱い二十世紀の娘の姿を捉えた。そしてそのとき、脳のなかで何かがぱちんと切れるのがわかった。彼はよたよたと弱弱しく彼女の方に寄っていき、棍棒を捨て、危うく倒れそうになった。何かがおかしくなってしまっていた。脳のなかに、耐え難い激痛が走った。あたかも魂がバラバラに飛び散っているような気がした。興奮にギラギラ光る人びとのまなざしをたどって、うしろをふり向いてみると、そこに熊の死骸があった。その光景が彼を恐怖で満たした。彼は叫び声を上げた。皆に押しとどめられて山荘に導かれていなかったら、きっと逃げ出していただろう。(p207)(下線をほどこした部分は翻訳原文では傍点)



 「脳の激痛」がロンドンのもっとも書きたいことだろう。但し、自分の正体がばれてしまったことへの悔いではない。最高潮にまで発揮できた「野性」の力がそれゆえに急速に衰退せざるをえない、人格交替が意識を圧倒する勢いで今まさに作用しているその際の「激痛」だと受けとりたい。寂しさというよりも生理的苦痛に近いのだろう。それほど「野生」はこの主人公の存在理由そのものとして深く根づいている。この事件のあった後は、主人公からは「野生」は跡形もなく消滅し、幸福な結婚生活を送ることができるようになる。

 ロンドンの一方通行的な理想とその挫折が描かれていて、それだけ彼にとっては切実なテーマであるのかもしれない。「野生」に特にこだわらなければ、広い意味での「異界」へのあこがれと乖離ということでは、多くの人の追求課題とかさなる。「野生」にかぎって言えば、私も若いときに、そういう力ずくの世界に関心を持ったことはある。自分の肉体、体力、闘争心がどれほどのものなのか試してみたいという欲求はたしかにあった。現在においてはそれは私のなかで燃え残ってはいるもののそれほど切実ではない。若さがなくなったからでもあろうか。それは条件としてあるだろう。だが「野生」へのあこがれが若さの消失によって同じように必然的に衰えるのかどうかは簡単には決められない。少なくともロンドンは40歳という年齢でこの世から去るまで、「野生」へのあこがれと関心をもちつづけた。その年齢が若いのか壮年なのかも、人の受け取り方によってちがうだろう。この短編の主人公のように、ロンドンのなかであこがれが挫折したとしても、ロンドンにおいては、その後の普通の生活や人間関係への関心へと作家的興味が移行することはなかったのではないか。本短編集のどれをとっても「普通の生活」に力点をおいて書かれてはいない。その点ではこの作家には不満が残る。

 「野生」と自然が抒情的に語られるのが「水の子」で、舞台がハワイであることも作用してのどかな気分にひたれる。70歳になっても現役をつづける漁師が神話を、そして伝説を話す。この漁師、聞き手の前で伸ばせば3メートルにもなる大蛸を素潜りで採るのだから、語りを信用してみたい気にさせられる。この老漁師自身が、ロンドンの好きな「野生」との調和を果し終えた存在として登場するからだ。伝説とは、鮫と言葉を交わす少年漁師のことで、王の巡幸に際して好物のロブスターを採りたいがため、鮫をだまして共食いをさせてそれが終了した後悠々と漁をやり遂げるという話だ。最後の一匹の鮫はどうなったのか、それは読んでのお楽しみとしておこう。少年はともかくも、ロンドンの老漁師に対する羨望が透けて見えるように思える。たくましい体力をもっての自然との共生。そこでは神話も伝説も真実らしく語られる。ロンドンが望んだ生活にちがいない。

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