大洋ボート

ジャック・ロンドン「メキシコ人」「一枚のステーキ」

 人間の肉体はどこまで強くなることができるのか、ということがロンドンの主要な関心事であった。みずから肉体を鍛えることによって体力は自然に向上するだろうし、また逆に肉体がいじめられたり打撃を蒙ったりすることも闘争心を養うことになるのかもしれない。当人が強くなろうとする意思を頑強に保持するかぎりはだ。ただし打撃が回復不可能なほどであっては元も子もないが……。ロンドンはそういう強い意思を持つ人間に非常な親近感を寄せていたし、自身も一時期そういう志向を抱いたことがあったのだろうと推察する。彼の文学的彫琢も、そういう人間像を練りあげることに向かった。「メキシコ人」はその典型的な一例で、たしかによく書けていて感心するものの、私などはそう思う一方で、主人公があまりに強いのに対しては警戒心を抱きたくなる。どうやらこれはロンドンの自画像からはややはなれたところに位置する人物像だ。同時にロンドンがあこがれる類のそれでもある。彼は神がかり的な強さを発揮する。しかも革命的精神の体現者として。

 主人公フェリペ・リベラは18歳の若者でボクサー。そしてもうひとつの顔が、1911年に始まったとされるメキシコ革命下の革命派組織の熱烈な協力者である。最初は、読者は彼の正体を説明されない。革命組織フンタに訪れてきて仕事を手伝わせて欲しいと告げる。だがひと目見ただけで、居合わせただれもがその異様な印象に気圧される。世界全体を拒み、憎しみをたたきつけるような表情が張り付いているからだ。読み進むにつれて。それは彼の両親が勤務していた工場で虐殺されたことによる怨念にもとづいていることがわかるが、この出だしは効果的だ。

フェリペ・リベラと名乗り、革命のために働きたいと言った。ただそれだけだった。無駄な言葉はひとつもなく、それ以上の説明も無し。ただそこに立って待っていた。唇に笑みはなく、目には少しの愛想もなかった。威勢のいい大男パウリーノ・ベラでさえ、内心寒気を感じた。若者には何か近寄りがたい、恐ろしい、不可解なところがあった。黒い目には毒々しい、蛇を思わせるものがあった。目は冷たい炎のように燃え、とてつもない、凝縮された憎悪をたたえているように見えた。(p35~36)


 組織の人は彼を受けいれるが、スパイの疑いも捨てない。そのためやがて彼が申し出る寝泊りさせて欲しいという要求ははねのけ、部屋の掃除を命じる。言われたとおりにリベラは黙々とやって済めば帰っていくという毎日がつづく。そして何回かまとまった金を差し入れすることでようやく彼のスパイの嫌疑は晴れる。それどころか「地獄をくぐりぬけてきた」男として絶大な信用をうる。やがて武器購入のための大金をものにするために彼は売り出し中の強豪アメリカ人ボクサーとたたかうことになる。後半はこの試合の精細な描写になる。

 生意気だが、自画像を描くに際しては、想像力は体験してきたことからほとんど離脱できないものではないか。私はそう思っている。体験を行為の中断だと見做したところで、やはり行為の再開をもってしかその行為の延長線は描けないのではないか。想像でそれをやってしまうと、ともすれば架空のもの、嘘になってしまう。嘘だという自覚があればいいのかもしれないが。ただ特定の人間像へのあこがれがあって、作家は書かなければ気がすまないことも認めなくてはならない。作家はともすればそれを手持ちの想像力を使って自分が知っていることのように書いてしまいがちだ。読者もまたその巧みさに真実味を感じて引きこまれることがある。

 リベラのような男がこの世にほんとうにいるのだろうか。いるのかもしれない。ただし相対比較的な印象かもしれない、少なくとも自分よりも強い男はいるだろう。絶対的に強い男、怨念を最高の状態で維持しつづけられる男、また、格闘における勝ち負けではなく、自分を全面的に律して恐怖に立ち向かえる男がはたしているのか。どうも私は頷きたくない。通俗活劇や神話的人物なら別の話だ。だがある短い期間神がかり的な強さを体現する人間はいないことはない。身近な例なら、テレビで格闘技を観戦したとき稀にそういう人間を目撃することがある。そういう男としてリベラを読めば、ようやく私は納得することができる。まわりくどい言い方になってしまったが。

 格闘技においては、敗北がKOなり判定なりで明瞭にならないかぎりは敗北を認めてはならない。自分が負けるという心が忍びこむと負けてしまう。そう思う前にたたかうのだ。勝利の絶対的な自信をうるために練習をかさねる。リベラは競合相手にスパーリングを積んでタフさを獲得してきた。そしてまた革命を成功させようとする怨念がある。レフリーも味方のプロモーターも観衆もすべて相手の人気ボクサーの味方だが、くさったりはしない。それがファイト材料としてはたらく。リベラは革命の大義を背負っているのだ。上昇の過程にある体力とみなぎった精神が結びついた「奇跡」を読者は見ればよい

 リベラを祝う声はひとつもなかった。付き添いもなしに、セコンドが椅子を戻してすらいないコーナーまでリベラは歩いていった。そして彼はロープに寄りかかり、憎悪の目を観客に向けた。その目を場内一帯に、一万のグリンゴ(アメリカ人)全員を収めるまで走らせた。膝ががくがく震え、疲れのあまり目からは涙が出ていた。吐き気に目もくらむ仲、リベラの眼前で、憎い顔たちが前後に揺れた。それから彼は、顔たちが銃であることを思い出した。銃はみな彼のものだった。これで革命は続行できるのだ。(p76)


 この短編の紹介からはずれてしまうが、記しておきたい。革命や政治の世界においては強く見える人間がもてはやされる。集団においては、強い人間の発散する空気が弱さや「日和見」を引っぱりあげる、弱さを自覚する人間を「強く」して集団全体をも「強く」する効果を発揮するものだ。これは政治的にはたいへん有効なことにちがいない。だが反面においては、それは人間において自分の弱さを無自覚化させる危険も孕んでいることを押えておかなくてはならない。

 「一枚のステーキ」もボクサーもの。こちらはリベラのような頂点の強さを発揮する若者ではなく、引退間近のベテランボクサーだ。売り出し中の人気ボクサーの上昇過程における「噛ませ犬」のあつかいだ。主人公トム・キングもかつては花形ボクサーだったが、今は貧乏所帯。借金漬けであらたな借金もできず、満足なトレーニングも食事もできないまま試合にのぞむ。相手のスタミナを浪費させる作戦にでて成功し、もう一歩というところまでもっていくが昔のイメージどおりに体が利かない。やむをえないことなのかもしれないが、作戦の計算とともに肉体の衰えを試合中たえず意識してしまう。試合前にステーキを食べられなかった、会場までタクシーで行くべきところが金がなくて徒歩で3キロ歩いた。こういう悔いもちらついて、結局は敗北に終わる。キングが思い出すのは、その昔倒してのけた相手のベテランボクサーのことだった。彼はボクサー生命の終わりに直面して控え室でさめざめと泣いた。そして今、キングもまた同じように泣いてしまう。若さが老いとなり、さらに新たな若さが追い越していくという永遠の交代劇。「メキシコ人」と比較して読むと興味深い。

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