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ジャック・ロンドン「火を熾す」

火を熾す (柴田元幸翻訳叢書―ジャック・ロンドン)火を熾す (柴田元幸翻訳叢書―ジャック・ロンドン)
(2008/10/02)
ジャック・ロンドン

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 肉体を鍛えること、または鍛える鍛えないにかかわらず死に近接する苛酷な自然に肉体がいきなりのように投げ込まれること、それらの際の人間の反応にジャック・ロンドン(1876~1916)という人はたいへんな興味を示した。反応は一様ではない。結果だけみても、たとえばボクシングのような格闘競技なら勝つか負けるかというちがいがある。厳しい自然なら生還を果せるかそこで死に絶えてしまうかという重大なちがいがある。だがそういう個々のちがいを超えて、当の人間は否応なく何らかの変化をこうむる、背後にしてきた日常生活ではえられそうもない変化を体得する、ここにロンドンは意義をみいだそうとした。そういう変化を当人が望むかどうかは別問題である。また変化の中身もおのずから一様ではない。持てる肉体の力をすべてを出し尽くしたとき、人は獣や原始に接近することができるのかもしれない。また、あっけなく死んでしまう場合でも、その直前に何らかの幻想に引き込まれて死さえ忘れるほどの心地よさに到達するものかもしれない……。つまりロンドンはロンドン流の非日常性を射程に入れつつそこでのたうち回る人間の実相をたどりながら、それらを人間の理想像の糧としようとした人ではないかと思う。

 ロンドンの伝記的事実は彼の翻訳小説の解説文で書かれたわずかなこと以上は知らないが、なんでも家が貧しかったらしく十代前半からすでに就業させられたそうだ。ゴールドラッシュに沸くカナダ・北極圏にも行った、遠洋漁業船にも同乗した。非インテリということになるが、文学・思想関連は独学で追究した。先に書いたような「肉体の非日常性」への並々ならぬ関心は、したがって彼の体験と見聞にもとづいている。書くならばそこから出発する以外は考えられなかったであろう。危機を間一髪で逃れたことがほんとうにあったかどうかはわからないが、まるでその現場に居合わせたような臨場感にあふれている。

 「火を熾す」はカナダ北部の冬の凍原を単独で踏破しようとする男の話だ。白一色の世界。春になると起こるであろう流木の調査のためで、犬を道連れにして1日の行程で仲間のいる採鉱場へ着く予定だった。利益追求のためであろうか。「古参」の男には止めるようにたしなめられたのだが、ふりきってしまった。だが気候の厳しさによって男は自分の行動の無謀さをたちまち知らされることになる。忠告を聞いたらよかったと悔やむ。「華氏零下50度」(翻訳者柴田元幸の註によると摂氏零下約45,6度)乃至それ以下の極寒にさらされるからだ。たとえば、唾を吐くと着地するまえに霜状に凍ってしまう。噛み煙草で変色した唾液は口の周囲で髭にまつわりついて黄色く凍りつく。吐息もたちまち霧になり顔にはりついて凍る。それだけだったら落語みたいだが、凍傷が無慈悲な早さで彼をおそってくるのだ。用心しいしい、氷や雪の下に流れる水に足をとられまいとして犬を先導させて歩を進めるのだが、やはり犬はザブンとやってしまう。犬を助け出さなければならない。だが手袋を脱ぐとたちまち凍傷がおそってくる。すばやく火を熾して、手足を暖めなければならない。手袋や靴下や鹿革靴(モカシン)を苦労して脱ぐが、指先がすでにいうことが効かなくなっている。自分の身体で指先をたたいて感覚をとりもどそうとする。少しはましになったような気になるがまったくの回復ではない。こういうところは私には未知の世界だが、凍傷のおそろしさはリアルに感じられる。いったん発生してしまうとテンポはどうであれ不可逆的に進行する。火は回復の特効薬ではない。進行を少し遅らせ、症状をほんの少し和らげるだけのようだ。

 マッチが勿体ない。指先が麻痺して一本一本取り出せないので、束にして手首の当たりにはさんで靴で擦るという回りくどい所作でやっと発火させることに成功する。草や木の枝を集めてきて暖をとるのだが、この火が何と消滅してしまう。エゾマツの下で火を焚いたからで枝に蓄えられていた雪が落下して火に当たったからだ。それからの男はしだいに冷静さを失っていく。無論冷静であろうと務めて現実に急接近した死を頭からふりはらうのだが、感覚の麻痺によって今一度火を作ることができないのだ。犬を殺してその死体に入って暖をとろうという考えも浮かぶ。突飛ではなくそういう話を知人から聞いていた。だが犬の直感は鋭く、すぐさま男の心の異変を嗅ぎ取って警戒する。男のほうは考えを捨てるのではないが、やはり感覚の麻痺で手に力がない状態でとてもそんなことはできないことを知らされる。
 

鈍い、重苦しい、死の恐怖が湧いてきた。いまやもう手足の指が凍るとか手足を失くすとかいう話ではなく、生きるか死ぬかの話であって、しかも情勢は自分に不利なのだと思い当たり、恐怖は一気に高まっていった。体はパニックに陥り、男は身を翻して、道筋もはっきりしない道沿いに川床を駆けていった。犬も仲間に加わってうしろから遅れずについてきた。男は何も見ず、何の意図もなく、今まで味わったことのない恐怖に包まれて走った。(p28~29)


 主人公に危機が訪れているにもかかわらず、私は白一色の極寒の地での人間の必死の営み、その細部のいちいちに引き込まれた。またロンドンは男ににわかに生起する恐怖や狂気、孤独、寂しさといったものを驚くほどの冷静さで筆に収めることに成功している。ロンドンにとっては読者を引き込むことは勿論、自分にとっても主人公の心身の変化はたいへん重要な事だ。こういう場所に身をおくことのできない身の私には不遜だが、逆に別天地のような輝きすら帯びて見えてしまう。読書の快感だ。やはりそれはこの短編の勝利の証とすべきであろう。

 主人公はついに死を受け入れようとして眠りにつく。もはや体力の限界を知って採鉱地にはたどりつけないと悟ったからだ。どうせ死ぬとわかれば安らかに受けいれたほうが楽なのか、私には確信はないがそんな気もする。しだいに朦朧となる意識の中で男は、自分の肉体から魂が抜け出して仲間とともに自分を探す「もう一人の自分」になった気になる。この心の変化は私にはたいへん自然なことに受けとれる。死もふくんだ自然界との融合をロンドンは目指したのか。そこはわからないが、先走って書けば、少なくとも肉体の危機をつうじて人間はその幅を拡張することができる。人間にはまだまだ知られざる側面があってそれを眠らせている。それを引き出して鍛えること、また鍛えられることに彼は意義をみいだそうとした。人間の理想像をさえ、そこに構築しようとしたのではないか。

 仲間たちが翌日自分の体を見つける姿を男は思い描いた。不意に、自分も彼らと一緒になって、道を進みながら自分自身を探していた。そして、依然彼らと一緒のまま、道の折れ目を曲がって、雪のなかに横たわっている自分自身に行きあたった。男はもはや自分自身には属していなかった。いますでに自分の外にいて、仲間たちと一緒に立ち、雪にうもれた自分を見ているのだ。こいつはたしかに寒いな、そう思った。国内に帰ったら、本当の寒さとはどういうものか、みんなに教えてやれる。そうした考えから、思いはやがて、サルファー・クリークの古参の幻影へと流れていった。暖かそうに、心地よさげにパイプをふかしている古参の姿がこの上なくはっきり見えた。(p31)


 人間は死に臨んだとき、死をひとりでに忘れてしまえるものかもしれない。そういうことがここには書かれている。死こそが安寧だといくら思い定めてもやはり人は死を根本的に厭う存在なのではないか。だからこそ意志しないままに死を忘れることができる。人間の幻想には自衛作用が備わっている、それが人間の中の「自然」であれば、たのもしいことだ。主人公は引用した部分で、まず自分ではない仲間の一員となり、そこで生き返った心地をえてふたたび本来の「生きた」自分にもどる。こういう過程を経る。読んで、何かしらふわりとした安心感をうることができる。

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