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谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』

猫と庄造と二人のおんな (新潮文庫)猫と庄造と二人のおんな (新潮文庫)
(1951/08)
谷崎 潤一郎

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 この小説が書かれたのは昭和十一年(1936)で、前回感想文を書いた「春琴抄」は昭和八年(1933)の作。この二作を比較すると見えてくるものがある。作者谷崎は後者における佐助的人物像を密室状態においてではなく、もっともっと俗世間にまみれた人として生かしてみたかったのではないか。佐助の核心のある部分は継承させながらも、俗世間に似つかわしく、生かしやすくするためにかなりの部分を変容させ、みすぼらしくさせたとしても。

 「春琴抄」においての主人公二人のなれ初めは、盲目の春琴が三味線の師匠の家にかよう案内役を丁稚であった佐助が主人から仰せつかったことである。佐助にとって春琴はこの世でいちばんうつくしい女性であり、ひとめ惚れという言葉でかたづけられないほどの運命を受け止めさせた。佐助にとっては僥倖だった。また春琴にとっても佐助ほどおのれを捨てて奉仕してくれる男はいなかった。以後二人は実質上の夫婦として長くともに暮らしていくことになるが、実家の二人に対する援助と庇護が手厚くつづけられたので、繭のなかにぬくぬくと居つづけることができた。佐助に対してときに苛烈な春琴であったが、佐助は春琴のことのみに腐心できる環境にあった。春琴が賊におそわれて顔に火傷を負ったことが最大の危機だったが、それも佐助がより強い絆をつくりあげて切り抜けた。みずからの目をつぶして盲目になって、春琴の姿を見られなくしたのだ。

 庄造には佐助ほどの意志の求心的強さはないにしても溺愛という共通点がある。かたやうつくしい女性、かたやリリーという名の猫だ。猫といっても馬鹿にしてはならない。本人は大真面目で、猫の相手をするときはそれ以外のことはまったく眼中にないくらい可愛がる。だが庄造は妻と母、つまりは嫁と姑にはさまれての同居生活で、猫に没頭することもままならないなかに暮らさねばならない。ここが佐助と大いにちがうところである。妻の福子が猛烈に嫉妬するからだ。

 はじめのほうに、庄造が小鰺の焼いたのを二杯酢をつけてリリーに食べさせる場面がある。まず自分の口に入れて硬い骨があれば口でつぶしてやってから与えるのだが、猫が背伸びしたり飛び上がったりするくらいの高さにあげてそれを見せるのだ。箸でつまんだりときには口移しで食べさせる。同じ鯵を庄造と猫が口に入れて引っ張り合う場合もある。本人のためのおかずの大部分を猫にくれてしまう庄三だが、それでも彼は大満足で、至福のときだ。第三者的に見れば他愛がないのだろうが、たまらないのは目の前で一連のじゃれあいを見せつけられる妻の福子のほうだ。猫に示すほどの溺愛ぶりを夫はちっとも自分にふりむけてくれない。そんな嫉妬で平静さをうしなう。また私は、ここには小さな動物を異常なまでに可愛がる庄造という人物の大人に成りきれない幼稚な一面を見る気がするが、どうだろうか。

 おりしも、前妻の品子からリリーを譲ってくれないかと懇願する手紙を福子は受け取ったところだった。品子は追い出された形で出ていったので、庄造には未練がある。また置いていった物もある。思い出の形見分けということで猫を欲しがった。さては猫を餌にして庄造をおびき寄せるつもりなのか。そういう気配を察した福子だったが、庄三には行かせずに第三者の塚本という知人を介して譲ってやろうということに決め、嫌がる庄造を強引に説き伏せたのだった。とにもかくにも庄造から猫を引き剥がしたかったのだ。

 庄造は品子を心から嫌がっているらしい。母と張り合うところがどうにも厄介だし、それに手紙の一件でもわかるように奥底に秘めた考えを表面には出さないタイプらしい。素朴な庄造にとって太刀打ちするには荷が重そうだ。品子と庄造の生活がいかなるものであったか、微細な描写は省かれているが、そんなところだろう。

 庄造はぐうたらである。コックの見習いをしたこともあったが、結局は辞めてしまい、母が細々と開いている金物屋をなし崩し的に継いでしまった。世に対する積極的な意志を感じられない男で、ビリヤードに凝ってみたり、安酒場に通ったりと、遊びに流れるタイプらしい。品子とのなれ初めはやはり省かれているが、おそらくは品子のほうが積極的に働いたのだろうか。それにこの男、母性本能をくすぐるところを持つらしい。品子が追い出されたのも、やはり庄造が率先したのではなく、母や福子の父で、二人でほぼ同じ時期に福子と庄造をひっつけたのだ。庄造とは、このように重大な何もかもを身の回りの人に任せてしまう癖の人物で、またそうやって育てられたのでもあろうか。はけ口である唯一の趣味が猫というわけである。ついでに言うと、私も何をしたいという気もなくずるずると実家の仕事を継いでしまった男だから、共通点はあるのだ。母に対する甘えという点はわからないが、仕事に対する不熱心さは共通する。さすがに今どきだから、結婚相手をひっぱってこられてくっついてしまったということはないが。

 それに猫好きといっても、庄造は子供のころからそうだったのではない。辞めたレストランから引き取らせてもらって夢中になってしまったらしい。よく子を産む猫で、その度に痩せて衰える、跳躍力も眼に見えて少なくなる。憐れむ気持ちが自然に湧いてくるが、そんな風に感情を一番かけられるのが彼にとってのリリーなのだ。肉親や世に対して肩身の狭い思いをしても、猫に接すると忘れられる。それとも、自分に対する憐れみをより弱い小さな動物にそっくり移すことによって慰安を得るのか、単に無意識なのか。

 そんな庄造が猫に二回会いに行くが、一回目は欲に負けての衝動的行動だ。知人の塚本は猫の様子をときどき庄造に連絡する約束ができていたがすっかり忘れていて、庄造が気になって塚本を訪ねたついでだった。そこからふらふらと足が品子のいる場所へ向いてしまう。道筋に住む別の知人に小銭と提灯を借りて品子の家(妹の二階を間借りしている)まで歩いていってその裏手に待機し、猫が出てくるのを根気よく待つのだ。読んでいてものすごく惨めっぽい。庄造はその知人の家でフライパンを貸してもらって近くで買った鶏肉をいためて持っていった。自分の腹ごしらえのアンパンもついでに。鶏肉は猫が迷い出てきたときに与えるためだ。裏手には雑草が生い茂り夜露に濡れる。夕刻から夜に入って冷え込んでくる。心まで寒々としてくる。

 二回目は品子の妹にかけあって、彼女のわずかな留守の間に二階に上がって、ついにリリーと対面を果すのだが、猫は品子になついてしまって庄造のことなどまったく知らない存在になってしまっている。部屋にこもる糞の匂いになつかしさがこみあげ、大いに感情を高ぶらせた庄造であったが、同時に惨めさもたっぷり味わう。なんだか、あらためてどん底につきおとされたような気配に支配されるのだ。

考えてみると庄造は、云わば自分の心がらから前の女房を追い出してしまい、この猫にまでも数々の苦労をかけるばかりか、今朝は自分が我が家の閾(しきい)を跨ぐことが出来ないで、ついふらふらと此処へやってきたのであるが、このゴロゴロ云う音を聞きながら、咽(む)せるようなフンシの匂を嗅いでいると、何となく胸が一杯になって、品子モ、リリーも、可哀そうには違いないけれども、誰にもまして可哀そうなのは自分ではないか、自分こそほんとうの宿なしではないかと、そう思われて来るのであった。(p127)


 これはしめくくりの言葉だろう。庄造は自分への思いに行き着いてしまう。自分がいちばん哀れだということに気づいたのだ。『春琴抄』の佐助は春琴を慮ってではなく自分のために眼をつぶした。自分の欲望に忠実にということだが、欲望実現のためにはよほどの意志の強さが必要だ。ある意味で禁欲的姿勢がいる。また環境にも恵まれなければならない。怠惰で市井の人である庄造にはそれらがない。また妥協を強いられる。『春琴抄』の物語は、もしかするとこういうことがありうるかもしれないという「奇跡」を感得させられるが、この『猫と庄造と二人のおんな』は隣近所にありそうな物語だ。欲望と人間との関係をさぐるうえでは両極端をなしている。

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